アジア歴史資料センターのデータベースの中の「胴乱」「薬嚢盒」「ランドセル」

「どうらん」とは何か

カバンという言葉が敷衍する前、「どうらん」という言葉が使われていた時期がありました。「どうらん」という言葉は、江戸期から使われていた言葉で、上方落語にも「胴乱の幸助」という演目があります。

主人公は大富豪で、いつでも胴乱を身に着けて街を歩き、もめ事があるとお金を渡し「これでご飯でも食べて仲直りせよ」というキャラクターです。この場合の「どうらん」は、現代でいうところのポシェットとかサコッシュのような、あまり厚さのないショルダーバッグのことを指します。

江戸末期には下記写真のように、凝った意匠をあしらい、根付や懐中時計などと一緒に腰にぶら下げて歩くようなファッションアイテムとして発達していったようです。

胴乱印籠と懐中時計根付『春雨集』 摺物帖-Dōran (Square Leather Box Used as an Inrō) with a Watch as a Netsuke From the Spring Rain Collection (Harusame shū), vol. 3 MET DP139018

胴乱印籠と懐中時計根付『春雨集』 摺物帖 (Metropolitan Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons)

一方で、昔の植物採集や昆虫採集をするための容器(工具箱を肩掛けできるようにしたブリキの箱を肩から提げるような形状)も「どうらん」と呼びます。

なんと現代でも製造されていました。 https://www.rika.com/product/detailed/G40-3002

推測にすぎませんが、「どうらん」は、本来の意味である「胴に付ける竹かご」から2方向発展していったものではないかと思われます。

つまり、ひとつは江戸期のダンディな男子のおしゃれアイテムとして、もうひとつは実用的な運搬用の道具として発展していったのではないでしょうか。

明治期の軍関係の記録で出てくる「胴乱」の大半は、軍備品として銃や弾薬と並んで記載されています。こちらは、江戸のいなせなファッションアイテムではなく、弾薬などを運搬するための実用的な運搬用の道具だったようです。現代の感覚ではこれはカバンというよりは工具箱のようなものもあれば、肩から掛けて腰あたりにぶら下げたカートリッジケースのようなものもあるようです。

下記は、1883年(明治16年)04月18日に作成された書類に記載されていた、胴乱の略図です。

1883年(明治16年)04月18日 水兵屯営用朱硯箱、胴乱引換渡方

呼び名のバリエーションとして以下のようなものが確認できます。

銃および弾薬に関係する意味合いの呼び名

形状や大きさに由来する呼び名

新旧に関する呼び名

その他

「脊覆胴乱」は、ランドセルの構成要素としての例がひとつだけあります。

また、英式胴乱という言葉があるので、欧米製のものとしては、英国製が知られていたのでしょう。

素材については、わざわざ革製と付けている表現があるので、革以外の素材も考えられます。

上記のような経緯から考え、「胴乱」は本来は「胴籃」(籃は竹製のカゴの意味)と書くべきなのでしょうが、上記江戸期の写真でも既に「胴乱」と書かれているとおり、統一されておらず、明治期も引き続き「胴乱」と「胴籃」がかなり混在しているようです。

ただ、軍関係の史料を見る限り、軍部内でやり取りしている史料の多くは「胴乱」「胴亂」と記されて いるようです。

面白い事例としては、明治27年の近衛歩兵第1旅団が作成した「兵要支那語」があります。この本は、簡単な日中用語辞典なのですが、8月7日発行の初版では「胴乱 どうらん(皮包 ピーパオ) と記されている一方、直後の8月25日に発行された「兵要支那語 増訂再版」では、「胴籃 どうらん(皮包 ピーパオ)」 に書き換えられています。

薬嚢盒・弾薬盒

薬嚢盒は、弾薬を入れる袋または箱のことで、「やくのうごう」と読むようです。

「盒」は、飯盒炊爨(はんごうすいさん)の「ごう」のことで、本来は蓋が付いたお皿や器のことを指しますが、明治の軍隊ではかなり早い時期から、薬嚢盒・弾薬盒・弾盒・薬盒といった言葉で、弾薬を携帯するためのものを指していたようです。詳しくは、Wipipediaの弾薬盒のページに詳しい。

明治4年12月08日の「癸2号大日記 20斤砲薬嚢盒渡第1丁卯艦申出」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090446700、公文類纂 明治4年 巻31 本省公文 器械部(防衛省防衛研究所)」には、下記のような図が掲載されています。

貳拾斤砲薬盒図面

この図には寸法が書き込まれていて、「蓋高さ 1寸7分」「口 3寸4分」「深さ 1尺3寸7分内」という数字を読むことが出来ます。

巾10センチ、深さ40センチくらいで、4センチくらいのがま口のような金具がついており、肩から掛ける紐がついているように見えます。

ランドセル

この資料の中では40件ほど用例が確認できます。古いものでは明治3年8月19日の資料「田安一橋両家兵器ヲ献納ス」という中に、胴亂と共に500個を献納することが記されています。 この頃は、胴乱とランドセルは全く別物として扱われていたようですが、数は胴乱もランドセルもそれぞれ500個あることから、それなりの軍備品として扱われていた印象があります。 しかし、西南戦争の関係ではほとんど出てきておらず、胴乱に比べて掲載数は非常に少ない印象です。

1870年(明治04年)12月18日 ランドセル外2廉渡鳳翔艦申出

二百七十六号

ランドセル      八ツ
   但水勇入用引当
一 喇叭総附緒      二本
一 小太皷        二ツ
右之品々臨時御渡相成候様致度此段申出候也
辛未 十二月十八日 鳳翔艦長 海軍少佐福島敬典
海軍務局

本文ランドセル諸艦ニ是迄渡方相成居候哉承度候事
十二月廿日 軍務局
武庫司 検 武庫廻

1870年(明治04年)02月10日神祇集議開拓大学校往復 ランドセルミ外科道具返却方大学東校頼談再答

ランドセルミ外科道具価御問合之趣致承知候然処在来 之道具同製之品ハ今時甚払底ニテ迚モ同品有之間敷候 ニ付箱入切断器並懐中外科道具御調ニ相成候ハヽ右 ランドセルノ道具之用ニ相適可申候尤代価ヘ切断器並懐 中外科道具両方ニテ上等之処百三十金位下等之処八十 金位ニ可有之ト存候左様御承知被成度此段御答申進候也
辛未二月十日 大学東校
主簿 佐藤兵部大録殿

明治41年頃の関税改正の検討資料

明治41年頃の関税改正の検討資料に皮革や鞄などについて記されているので、別途調査したいと思います。

明治41年頃の関税改正の検討資料に皮革や鞄などについて記されている

アジア歴史資料センターのデータベースで「動乱」について調べた一覧

以下に示すのは、主に政府や軍部の記録が保存されいるアジア歴史資料センターのデータベースで「動乱」について調べた一覧です。 検索に当たっては、崩し字を解読したものが検索用のインデックスとして使用しているのがわかるのですが、この解読した文章に結構誤認識が多く、たとえば「負革」が「員革」と読み下しているところなどが多数見つかります。