この文章は、以前「鞄談義2」に寄稿した記事に加筆修正を加えたものです。

まとめの年表

1871年(明治04年)   
1872年(明治05年) 陸軍省衆規渕鑑抜粋の中に「ランドセル」の記載。以降、背嚢の記載に変わる。 
同年         英国單語図解に、knapsack 子ップスヱック 負嚢 ランドセルの記載  
1873年(明治06年) ウィーン万博出品物に「カバン」の記述。竹で編んだバスケット状のものか?  
1874年(明治07年) 12月、『府県物産表』の大阪に「革カバン」の記述。東京はまだカバンの表記ではない。  
1875年(明治08年) 
1876年(明治09年) 
1877年(明治10年) 第一回内国勧業博覧会開催。谷澤氏が革製の「提嚢」出品。  
同年        4月、新潟新聞に「是を以って今カバンの中を掻探し」の記事  
同年       11月、大日本各港輸出入物品九箇年一覧表に革文庫=Trunkとの記載  
1878年(明治11年) パリ万博に姫路の浦上氏が「革カパン」出品。谷澤氏勧工場で「鞄」の漢字を当てて販売開始。  
1879年(明治12年) 
1880年(明治13年) 宮城県博覧会にカタカナで「カバン」の記述。  
1881年(明治14年) 第二回内国勧業博覧会開催。「革包」の表現多数。「カバン」と読む。  
1882年(明治15年)  
1883年(明治16年)  
1884年(明治17年)  
1885年(明治18年) 5月、『浪華商工技芸名所智掾』「武具カバン」の記述  
1886年(明治19年) 3月末、『言海』の草稿上奏。草稿にはまだ「鞄」の文字は無く、カタカナの「カバン」のみ。  
同年        末広鉄腸著『雪中梅』に「之れに革手提(カバン)と毛布(けっと)包みを担はせて案内者となし」
1887年(明治20年) 谷澤氏独立開業。(京橋南伝馬町の可能性)   
1888年(明治21年) 3月、『愛知県下商工便覧』に「カバン」の記述。   
同年        7月、『最大効益大阪買物便利』に「カバン」の記述2件。  
1889年(明治22年) 8月、『北越商工便覧』に「革盤」「かばんるい」の記述。  
同年        10月、『言海』第二冊出版。辞書にカバンとしての「鞄」初出。  
1890年(明治23年) 7月以前に谷澤氏、銀座に店舗移転。(鞄商廛の看板)  
同年        7月、『東京買物独案内』出版。谷澤を含む鞄店掲載多数。  
同年        7月、『東京百事便』出版。「革鞄店」としての谷澤を含む12店掲載。  
同年        7月、第三回内国勧業博覧会で「鞄」の記述。  

イントロダクション

鞄について、思いのままにあれこれ語るとき、避けて通れないのが「カバン」というこの言葉自体に関する蘊蓄でしょう。だれでも簡単に語れそうなこの蘊蓄ですが、実はとても奥が深いのです。そこでここでは、「カバン」という言葉や「鞄」という文字が日本においていつ頃使われ始めたのか、ということについて日頃だらだらと考察していたことを文章にしてみました。

話はあちこちに寄り道していますので、結論をさっと読みたい方は、間を抜かして最後のまとめをご覧ください。また、歴史学者や時代考証学者のような綿密かつ網羅的な考証はできていませんので、間違いや勘違いがありましたら、温かい目で見ていただき、ぜひ正しい情報をお寄せください。

「カバン」に「鞄」という文字をはじめて当てた人

「カバン」という言葉は、私の知る限り江戸時代の文献からはまだ見つかっていません。明治十年代から現れ始め、明治二十年代に漢字の「鞄」という文字が出現します。いわゆる文明開化の流れの中で、生活様式が変わり、西洋式の近代的な軍隊が組織され、制服や軍靴等が調達されるに至り、新しい西洋文化が大量に流れ込んできた時代であり、「カバン」もその中の一つであるはずなのですが、なぜか語源がはっきりしません。それどころか、そもそも日本語なのか外来語なのか、外来語だとするとどこから来た言葉なのか、そういう基本的なこともほとんどわかっていません。中国語の「夾槾」を由来とする説、オランダ語のkabasが変化した説等がありますが、どのような根拠に基づいてそのように主張しているのか、残念ながら未だ根拠資料に出会っていません。

ところで、このサイトにアクセスするような方であれば、銀座の老舗鞄店が「鞄」という漢字に「カバン」という読み仮名をあてたというエピソードくらいはご存知でしょう。銀座タニザワのホームページには、この原稿の執筆時点(2021年1月)では以下のような沿革が書かれています。

1874年 (明治7年) 初代谷澤禎三、日本橋川上藤兵衛に師事し、タニザワの母体を築く。

1877年 (明治10年)
上野で第一回内国勧業博覧会が開かれた。 この時、谷澤禎三が出品したかばんが受賞、その賞状には「提嚢」としるされていた、 そこで谷澤禎三は関係者と協議のうえこれまで使われてきたかばんにたいする名称の一つであった革包「かくほう」の文字を横に並べて「鞄」をカバンと読ませる事を提案した。

1890年 (明治23年)
銀座に店を構える。禎三が考案したといわれる「鞄(かばん)」の文字を看板に掲げたところ、これが銀座をお通りになった明治天皇のお目にとまり、侍従職を通し何と読むか?」との御質問を受ける。 これをきっかけに「鞄」の字が全国に広まったと伝えられている。

また、銀座テーラーのホームページには、かつて「銀座テーラーがお勧めするメードイン銀座(Archive.orgから過去の記載を見ることができます。)」として銀座タニザワの谷澤信一社長のメッセージが掲載されていました。(現在は大幅にリニューアルされてメッセージは残っていません。)ここでの説明は、銀座タニザワのホームページよりもう少し詳しく書かれていました。

私ども銀座タニザワは、明治七年に誕生した鞄店の元祖でございます。
初代の谷澤禎三は、仕事を始めた当時から、新時代式の携帯嚢物を作り始めましたが、当時はまだ鞄と言わず、各品によって胴乱、革盤、手乱、サック等と称して、一定しておりませんでした。
明治十年の第一回内国勧業博覧会で受賞し、賞状をもらいましたが、それには提嚢とありました。その後、革包と書くようになり、禎三の提案で革包と縦に読んだ文字を横に一文字としまして鞄(かばん)と読ませたのが最初でありましたが、辞書(言海)に取り上げられたのは、十二年後でございました。
明治二十三年には、現在の地、銀座一丁目に進出いたしました。当時の書家として有名でした巌谷一六先生に「鞄商廛」とい文字の揮毫を願いまして、この大看板を店頭に掲げました。
この時代に、明治天皇が銀座をお通りになられた時に、この看板がお目に留まり、お付きの方に「なんと読むか」とご下門がありましたが、 誰一人読めるお付きの方はおられず、禎三は侍従職の方から呼び出され、ご説明申し上げた、というエピソードが言い伝えられております。

これが銀座タニザワの初代谷澤禎三氏が「鞄」という文字に「カバン」という読みをあてたという有名なエピソードです。
そして、今注目したいのは、「鞄」という文字と「カバン」という言葉の出会いです。

「大漢和辞典」に見る「鞄」という漢字

漢字としての鞄がどのようになっているのか、手始めに諸橋轍次著『大漢和辭典』をひいてみましょう。

【鞄】
[一]ハク    〔集韻〕匹角切 p’ao2  
[二]ホク・ボク 〔集韻〕蒲沃切  
[三]ハウ・ベウ 〔集韻〕蒲交切  
[四]ハウ・ベウ 〔集韻〕部功切  
[五]ハウ・ベウ 〔集韻〕皮教切 pao1  

[一][二][三][四] (1)かはつくり。なめしがはの工人。通じて鮑(12-46074)につくる。  
〔説文〕鞄、柔革工也、从革包聲、讀若朴、周禮曰、柔皮之工鮑氏、鮑即革也。  
〔周禮考工記、總目、攻皮之工、函鮑韗韋裘、注〕鮑、書或爲鞄。  
(2)或は★(12-43117)・◆(12-43013)に作る。〔集韻〕鞄、或从韋从陶。  
[五](1)用具の皮。〔廣韻〕鞄持皮。(2)かはつくり。〔集韻〕鞄、柔皮工。  
[邦]かばん  
出典:諸橋轍次『大漢和辭典』巻十二 P157 (P12754)  

★=鞄の異字体。鞄の革部が韋に変化した字形。
◆=上に「陶」下に「革」

『大漢和辭典』で引用している漢文の大半は、中国の康煕字典によっているようで、康煕字典にも同じような引用が確認できます。ここで大切なのは中国における「鞄」という漢字は、持ち運ぶ道具である「カバン」のことではなくて、革をなめす職人のことを指すということです。

ちなみに、この『大漢和辭典』の中で革へんの漢字を見ていると、鞍(くら)、靶(たづな)、𩊱(しころ)、鞅(むながい)、鞐(こはぜ)、勒(くつわ)、鞬(ゆみぶくろ)等、数多くの皮革小物や道具を示す漢字を見ることができますが、ものを入れて持ち運ぶ道具を意味する漢字は見当たらないというのも面白いところです。

とにかく「鞄」という文字(漢字)を作ったのは、はるかいにしえの中国人ですが、そこには「カバン」という意味は含まれておらず、日本人がどこかのタイミングで「カバン」という意味を付与したのです。では、それはいつどこからなのでしょうか。先のエピソードにあるとおり、明治中期の銀座タニザワなのでしょうか。

『日本国語大辞典』に見る「鞄」の記述

それでは「鞄」という文字がはじめて文献に現れる時期を探索してみましょう。用語の初出等に詳しい小学館の『日本国語大辞典』には、次のように書かれています。少し長いのですがご紹介しましょう。

かばん【鞄】
〔名〕(ふみばさみの意の中国語「夾板」の日本語読み「きゃばん」または櫃(ひつ)の意の中国語「夾槾」の日本語読み「きゃばん」「きゃまん」から出た語。「鞄」は元来、なめし皮、また、それを作る職人の意。明治期に「カバン」をあてたもの)皮またはズックなどで作り、中に物を入れる携帯用具。もとは今のトランクのような形のものをさしたが、現在では通勤通学などに用いる手軽なものをいう。
*新潟新聞―明治10年(1877)四月七日「是を以って今カバンの中を掻探し、反古にひとしき鼻紙の皺を展べ 
*雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下・一「人足一人(いちにん)を雇ひ、之れに革手提(カバン)と毛布(けっと)包みを担はせて案内者となし」
*思出の記(1900―01)<徳富蘆花>三・一二「伯母は荷造りをした鞄(カバン)の傍(わき)に座って」
*風俗画報―三四四号(1906)横浜より父島まで「毛織物も虫害を受け易き故に締まりよき革包(カバン)か左もなくば和製支那革包(カバン)等を携帯すべし」
〔語誌〕幕末・明治初期の対訳辞書等における訳語には見あたらず、明治10年頃までの小説等には「胴乱」という語がこの意で使われていた。「カバン」は、10年代から20年代にかけて急速に定着していく。当て字に初めは「革手提」「革袋」「革包」が使われていたが、明治22年の大槻文彦の「言海」に初めて「鞄」の字が当てられる。
〔発音〕〈なまり〉ガッパン〔岩手・秋田〕ガバ〔福島〕ガバン〔青森・岩手・仙台音韻・仙台方言・秋田・福島・栃木・埼玉・埼玉方言〕カパン〔長崎〕カボン〔紀州・和歌山県〕ガンバ〔津軽語彙〕〈標ア〉(0)〈京ア〉(0) [辞書]言海 [表記]鞄(言)

出典:『日本国語大辞典』第二版(第3巻)おきふ~きかき P911

『日本国語大辞典』によると、幕末・明治初期の対訳辞書等には、「カバン」という訳語は見あたらないこと、漢字で「鞄」という文字が「カバン」の意味で使われたのは、大槻文彦の『言海』が最初であることが述べられています。ちょっと考えるとおかしい話です。普通、日常のあちこちや書物に記載された言葉があって、それを項目として並べ、説明するのが辞書であるはずなのに、他の書物などには一切掲載されておらず、辞書に先にその漢字・読み方・意味が載ってしまうという逆転現象が起こっているのです。

なお、中国語「夾板」「夾槾」由来説や、オランダ語kabas由来説については、個人的には否定的な考えです。

昔の英和辞典・和英辞典に見る「鞄」の記述

つぎに1867年(慶応3年)に、横浜で発刊されたヘボンの『和英語林集成』を調べてみましょう。今は便利な時代で、自宅に居ながら明治学院大学図書館の『和英語林集成』の初版をインターネット上のデジタルアーカイブスで検索することができます。まずは和英の部から。

Ka-ban, カバン, 加番, n. A reinforcement to the number of a guard or watch.
―szru, to increase a guard.

出典:ヘボン『和英語林集成』初版 (P168)

1872年版は、国会図書館デジタルコレクションでも参照できます。  ヘボン『和英語林集成』 P192

残念ながら、見張り役を増員するという意味の「加番」しか掲載されておらず、持ち運ぶ道具としての「カバン」は載っていません。「胴乱」も掲載されていません。ちなみに、「行李」は掲載されています。

Kōri, カウリ, 行李, n A trunk, or box made of cane, used in travelling.

出典:ヘボン『和英語林集成』初版 (P227)

旅行に使用する、籐製のトランクや箱とあります。文字通り行李であり、私たちの想像するいわゆるバッグとは少し遠い感じです。その外、皮袋、皮籠、革靴等の見出し語は載っています。今度は英和の部でバッグをひいてみます。何と書いてあるでしょうか。

Bag, Fukuro; tawara; hiyō.
出典:ヘボン『和英語林集成』初版

(P7)

バッグは「袋」であり「たわら」と訳されています。英和の部では他に、靴(Shoe)や靴屋(Shoe-maker)等は載っています。もしこの時期に「カバン」という言葉が靴と同程度に一般的になっていたのであれば、「たわら」という表現より前に「カバン」と書かれていてもおかしくありません。

このように『和英語林集成』が示すことは、幕末慶応三年の時点で、「靴」は既に漢字を含め一般的になっているものの、「カバン」のほうは、漢字はおろか「カバン」という言葉さえ未だ一般的ではなかったということです。

『言海』に見る「鞄」の記述

それでは次は鞄という漢字の初出とされる辞書『言海』で「カバン」をひいてみましょう。

カバン (名) 鞄 [洋語ナラム]革、布ナドニテ包ミ作レル匣、近年、西洋ヨリ入リ、専ラ、旅行ノ用トス。

出典:『私版日本辭書言海』(第二巻)
明治二十二年(一八八九)十月三十一日出版の複製(大修館書店) P207

国会図書館デジタルコレクションに収蔵されている言海でも確認できます。

編者大槻文彦氏がこの辞書をまとめた経緯を調べると、「鞄」を採録したもう少し詳しい経緯が分かるかもしれません。少し見てみましょう。

大槻文彦氏は、1847年(弘化4年)生まれで、『言海』で「カバン」の項を出版した1889年(明治22年)は、42歳でした。幼少より漢文詩文を学び、江戸開成所で英学を、仙台の藩校で蘭学と数学を修めているエリート官僚です。

彼は1875年(明治8年)、28歳の時に明治政府の指示で辞書編纂を開始し、9年の年月を要して明治17年に一旦完成させたにも関わらず、その稿本は、出版されることなくお蔵入りとなってしまいます。
1887年(明治20年)になって文部省に「自費出版するなら原稿を返す」と差し戻され、結局自費出版することになってしまいました。編纂中に家が火事になったほか、完成間際になって30歳になる妻や五歳になる娘を次々に病気で亡くすなど結構波乱万丈の人生を歩んでいます。涙なくしては読めない詳しいいきさつは、言海の奥書に書かれている「ことばのうみのおくがき」を読んでいただきたいと思います。今ではインターネットの青空文庫などで、無料で読むことができます。

話を戻すと、言海の書名に「私版」とついているのは、これが自費出版だったからなのです。この辞書はあいうえお順列を初めて考案・採用するなど近代的な辞書の体裁を取っておりたちまち辞書のスタンダードとなります。そして『大言海』として版を重ねながら昭和十年代までその確固たる地位を築いていました。

さて、ここで調査を終えていれば、日本国語大辞典の記述を再確認するだけに終わったのですが、調査の過程で私版に至るまでの草稿が、「稿本」として、復刻(原稿を写真撮影したもの)されていることを知りました。そしてそこでは「カバン」の項の説明が「私版」とは異なった説明になっているのです。

カバン (名) [洋語ナラム、詳ナラズ]手提ノ革袋ノ名、近年、西洋ヨリ入ル。
出典:『稿本日本辭書言海』(第一巻) P411

「稿本」は活字ではなく、手書きの資料です。あちらこちらに校正のあとが入っており、右の説明書きのうち「詳ナラズ」のところに薄く鉛筆で丸い印がつけてあります。おそらく「詳ナラズ」という表現が気になったのか、何らかの理由で洋語であることに確信が持てたのか、いずれかによって、「稿本」から「私版」になる過程で、「詳ナラズ」が削除され、確定事項となったものと思われます。

そしてなにより「稿本」と「私版」の大きな違いは、漢字の「鞄」が使われていないことです。つまり、稿本製作段階では、大槻氏は「カバン」という言葉は認知していたものの「鞄」はおろか「革包」や「革盤」といった漢字と結びついていなかったことがわかります。

また、説明文も「手提の革袋の名」という曖昧な認識から、「革、布製で包んで作る入れ物」、「専ら旅行用」と、やや具体的な認識に変わっています。材質についても稿本では革製という認識だけだったものが、布素材に広がっています。そして手で提げるだけではなく、旅行に使用するもう少し大型のものも「カバン」と称すことを新たに認識しているようです。

裏返せば、大槻氏の長い辞書編纂期間のうち「稿本」と「私版」の間のどこかで、「鞄」の文字を見つけたのに違いありません。それはどこだったのでしょうか。新聞や雑誌でしょうか。それとも銀座タニザワの店頭だったのでしょうか。ここで少し時系列を整理してみましょう。

1875年(明治08年)  大槻氏、文部省報告課にて編纂開始  
1878年(明治11年)  谷澤氏、勧工場で「鞄」の文字使用  
1884年(明治17年)  大槻氏、草稿完成  
1886年(明治19年)  03月23日  大槻氏、草稿校正完成  
1887年(明治20年)  6月東京府勧工場が、麹町区永楽町2-1から上野公園に移転。この頃谷澤氏、独立し京橋に店舗開店  
1888年(明治21年)  10月26日  大槻氏の元へ政府より稿本が戻る  
1889年(明治22年)  10月31日  大槻氏、『言海』第二冊(か~さ)出版
1890年(明治23年)  谷澤氏、銀座に店舗開店(鞄商廛の看板) この頃明治天皇のエピソード   

稿本完成が1886年(明治19年)の3月。それから第2冊が出版される1889年(明治22年)の十月頃までのどこかで、大槻氏はこの間のどこかで「鞄」という文字と現物を見て原稿を校正したと考えられます。

一方、谷澤氏が銀座一丁目にお店を開いたのは1890年(明治23年)です。7月には既に広告が載っていますので、7月以前にお店を開いたと思われます。銀座一丁目の店舗には、看板として書家の巌谷一六に「鞄商廛」という揮毫をお願いしたということですが、少なくとも大槻氏は書家の巌谷一六氏の「鞄商廛」という看板を目にして草稿を改訂したのではなさそうです。巌谷氏がむしろ言海を見て鞄の文字を揮毫した可能性の方が高いとさえ考えられます。

しかし谷澤氏の「鞄」という文字を見る機会が全く無かったのかというと、そうは言えません。後に詳しく考察しますが、谷澤氏は1878年(明治11年)の東京府勧工場(今でいうショッピングモール)ではじめて「鞄」という文字を使ったと述懐しており、その後、1887年(明治20年)の11月に独立したと言っています。勧工場でも十年近く使用し、1887年の独立から1890年(明治23年)の銀座一丁目の店舗オープンまでの間、京橋二丁目の店舗で商いを行い、そこでも「鞄」の文字を使っていた可能性があります。

これは丁度、大槻氏が稿本を元に校正を行い、出版作業に勤しんでいた時期と重なります。 勧工場の始まりは、万博の残り物を売りさばくためのものでしたから、自然と西洋の新しいものや、地方の珍しいものが集まっていたと考えられ、用語を採取するために大槻氏が勧工場を訪問していたと考えてもおかしくはないでしょう。

ちなみに、言海の奥付には、「東京府士族大槻文彦 府下下谷区金杉村百三十番地」と書かれています。金杉村というのは現在でいう日暮里や根岸のあたりとなります。大槻氏は自宅のあった日暮里から銀座や京橋あたりまで、どの程度出歩いていたのでしょうか。この時期、山手線はまだ上野まで伸びていません。上野まで延びるのは遥か先の1909年(明治42年)の話です。しかし新しい言葉の採集のため、上野の勧業博覧会や新しい産業の息吹を感じる丸の内、日本橋、銀座界隈の勧工場に足しげく通っていたと想像しても罪ではないでしょう。

ここで改めて注目しておきたいのは、谷澤氏の人脈についてです。「鞄商廛」という看板を依頼した巌谷一六は「明治三筆」と呼ばれる書家として有名である一方、明治政府成立以来のエリート官僚であり1886年(明治19年)から1890年(明治23年)までは元老院議官でもありました。(当時、巌谷一六氏は麹町平河町五丁目に住んでいたことが1884年(明治17年)出版の『東京案内 (70丁)』というガイドブックに記されています)

また、あんぱんを天皇陛下に献上したことで有名な銀座のパン屋、木村屋は、明治七年に山岡鉄舟揮毫の看板を贈呈されています。そういった事から考えると、銀座の地で店舗を出すにあたって、偉い人の看板は強い広告効果を持っていたのではないか、そして谷澤氏は、人づてに現役(またはほんの少し前まで)元老院議官であり、明治三筆と呼ばれる書家に依頼できる人脈を持っていたと考えてしかるべきです。鞄を販売する相手は、氏族や高級官僚、軍人など、西洋文化をより速く吸収しようとしている人々であったことは想像に難くありませんから、谷澤氏が得ていた人脈も相応のものだったのではないでしょうか。加えて大槻氏もその顧客の一人であったと考えるのは出来すぎでしょうか。

実は大槻氏の『言海』出版披露パーティはそうそうたる顔ぶれで行われています。1891年(明治24年)6月23日、旧仙台藩の先輩で東京府知事の富田鐵之助の主催で、芝・紅葉館(現在、東京タワーが建っている場所にありました)で『言海』の出版祝賀会が開催されています。時の総理大臣伊藤博文をはじめとし、榎本武揚勝海舟谷干城土方久元山田顕義大木喬任加藤弘之津田真道陸羯南矢野龍渓ら、政治家、軍人、ジャーナリスト等、そうそうたる顔ぶれがそろったようです。これから見ても大槻氏は単なる役人ではなく、政界、メディア界に名の知れた知識人だったことがわかります。(巌谷氏はこのパーティには出席していたのでしょうか)

なお、大槻氏の著作の中には『東京須覧具』(とうきょうスラング)という語彙集があります。これは「稿本」から「私版」を通り、大言海に至るまでの研究メモのようなもののようで、そこには遊女の言葉や東京弁等が二千七百語あまり収集されているようですが、この中には「カバン」なる言葉は見当たりませんでした。

東京鞄商工同業組合沿革史

さて、話を現代の百科事典に戻しましょう。今度は平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』で「かばん」を引いてみます。ここにも大変興味深いことが書いてあります。  

(略)一八七八年、名古屋の博覧会に大阪の森田直七が出品した際の褒賞状には、かたかなでカバンと書かれてあった。また同年、東京府勧工場に谷澤禎三が出品した飾箱の上の看板に〈鞄〉の字が使われたが、これは革包の二字を合体したもので、当時一般には革盤(かわばん)と呼んでいた。漢字の鞄は元来なめし革・革なめし職人を指す。(以下略)
出典:『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

ここでは大きく二つの記述に注目します。ひとつは、一八七八年に東京府勧工場に谷澤氏が出品した飾箱の上の看板に「鞄」という漢字が使われたということ。もうひとつは、「カバン」という言葉を同年に名古屋で開かれた博覧会の褒賞状に見ることができるということ。いずれもきわめて具体的な説明です。一体、この具体的な記述がどこから来たのでしょうか。結論から言えば、ほぼ間違いなく一冊の本に突き当たります。

さてここに『東京鞄商工同業組合沿革史』という古い本があります。一九三〇年(昭和五年)に出版されたもので、当時調べることができるあらゆる角度から、「カバン」の由来、語源、具体的な鞄の変遷等が説明されています。その調査は、最も広く深く詳しく包括的なもので、現在においてもおそらく最高水準のまとまった調査資料だと思われます。この本の内容の大半は、一九五六年(昭和三十一年)に刊行された『東京鞄業界沿革史』にほぼ引き継がれているので、調査したい方は、古本として比較的入手可能な東京鞄業界沿革史を見てみるのも良いかと思います。

この本では、東京近辺の鞄業界の重鎮たちが参加し、明治初期の業界黎明期の状況などを語っています。谷澤氏もこの中で「五十五年の回想」という詳しい回顧録を残しています。これはどうも昭和三年発行の記事を再録したもののようですが、時代時代の流行を語っており、大変貴重な証言となっています。そして、漢字としての「鞄」の誕生についても谷澤氏自身においてここに語られているのです。

谷澤禎三氏の回想

谷澤禎三氏は、『東京鞄商工同業組合沿革史』の中で「五十五年の回想」として明治七年当時を次のように述懐しています。(ちなみに、「禎三」という名前の表記は、古い資料では「★三」となっており、また一部資料には、本来「貞三」が正しいが業界では慣例的に「禎三」を用いているという説明もあります。ここでは銀座タニザワのホームページに従って「禎三」の表記にしています。)

★=谷澤禎三の名前。示へんの旧字形。

川上商店に住み込みました時、臺灣征伐が始り、陸軍中將西郷從道侯が出征されるなど世間は大騒ぎでありました。
その頃の鞄は宛然米俵に手紐をつけたやうな丸型ばかりで、殊に芯とすべきボール紙がなかつた爲め、經木をはり合せて芯に使ひましたが、全く體裁も技術も幼稚なものでありました。その名稱も一定されず、革盤、胴亂、手らん、サツクなどゝ區々に呼んでゐました。又同業者も銀座三丁目に島新、南傳馬町二丁目に早川といふ店があつたゞけに過ぎませぬ。
出典:『東京鞄商工同業組合沿革史』 P419-420

川上商店とは銀座タニザワの沿革にある川上藤兵衛氏のことで、谷澤氏はここに明治二十年までの十三年間奉公していたようです。この時期は、「革盤、胴亂、手らん、サツク」等と呼んでいたと書いてありますが、「革盤」という漢字をカバンと呼んでいたかどうかはここでは定かではありません。しかし、もし「かわばん」と呼んでいたならば、その旨書いていたでしょうから、ここでは「カバン」と呼んでいたと考えておきたいと思います。
この話に続けて『沿革史』では、初めて「鞄」の文字をあてることになるまでの経緯を谷澤氏が述べています。

明治十年三月に上野公園で第一囘内國勸業博覽會が開かれました時、其筋から鞄を出品するやう勸誘されましたが、未だ博覽會の趣意が判りませぬので、生返事をしてゐますと、再度の勸誘をうけまして、止むを得ず二種を出品しました。
然るに當局者もその名稱が不明だつたのでせうか、提嚢として賞狀を賜はつたことを記憶してゐます。
その博覽會の閉會後、残品處分の爲めに丸の内の龍(ママ)の口門前なる空屋敷の長屋(現在の海上ビルヂングの場所)を利用し、東京府主催で東京府勸工場を開かれましたが、毎日入場者が雑沓して好成績を舉げました。
この時、、遂に今迄の革盤を革包と改め、又革包の二字を約して鞄とし、出品飾箱の上の看板に鞄といふ文字を掲げられました。――之がカバンとして鞄の字が使はれた濫觴であります。けれども、鞄の意味が普通に判つてゐませぬので、廣告や看板には片假名でカバンとかいた時代もあります。
出典:『東京鞄商工同業組合沿革史』 (P420-421)

これが東京鞄商工同業組合沿革史に記述されている「鞄(かばん)」という言葉が誕生した経緯です。組合の見解ですから、これが事実上の業界の見解と言えます。

ただここで少し引っかかるのは、「遂に今迄の革盤を革包と改め」という表現です。革包をカバンの意味で使ったと思われる例は、東京府勧工場より前に開催された第一回内国勧業博覧会の中にすでに見ることができるので、勧工場の事務所で谷澤氏自身がこれを機に「革盤」を「革包」に改めたとは考えにくいのです。

また、「事務所でも鞄の名稱に就て種々協議を重ね」とありますが、この事務所とは東京府勸工場の事務所のことであり、東京府の職員が協議をしたというように読めます。カバンを「革包」としたのは東京府の勧工場職員であり、「革包」を「鞄」として川上商店の陳列棚に掲げたのは、勧工場職員であったとも読めますし、銀座タニザワのホームページに従えば、谷澤氏が関係者と議論して決めたようにも読めます。

ともあれここでは

  • 勧工場で「鞄」という文字を掲げていたのは谷澤独立前の川上商店であること
  • 「出品飾箱の上の看板に鞄といふ文字を掲げ」たという具体的な話が残っていること
  • その発言について同業組合の人々は異論を唱えなかったということ
  • 勧工場に「鞄」という文字を掲げていたにもかかわらずその後10年近く広まることがなかったということ

を押さえておきたいと思います。

森田直七と山城屋和助

『沿革史』には、日本における鞄づくりの起源として、明治の豪商山城屋和助がフランスから鞄を持ち帰り、これを森田直七に見せて模倣して作らせたという説も載っています。

曰く、大正五年に発行された『森田大人と鞄』という本があり、そこに山城屋和助がフランスで買い付けた鞄を彼の下で働いていた大阪の森田直七に見せ、これと同じようなものを作れと明治四年頃に指示をしたのが日本における鞄製作の始まりだと書いてあるらしいのです。

しかし、そこに書いていることは他の史実と矛盾が多く、信用できないと『沿革史』では結論付けています。この話は深く検証してみたいところなのですが、残念なことに、この肝心の『森田大人と鞄』という本が見つかりません。国会図書館で探しても見つかりません。

『日本鞄業総覧』には、大正九年二月四日に森田直七氏が大阪府から表彰されたこと(総括篇P42)や、関東大震災の少し前の時分に病床にあった森田直七氏に組合がワインや鮮魚を見舞として贈った話(総括篇P46)等が記されており、山城屋和助はともかく、森田直七氏が大阪の鞄産業の発達に大いに貢献したことは間違いないようです。

一方、山城屋和助は貧しい村の生まれから奇兵隊を経て、軍御用達の豪商に成り上がり、やがて山形有朋らから陸軍の公金を借りて投機に失敗し、すべての証拠を焼き捨てて自殺してしまうという波乱万丈の人生を歩んだ人物です。詳しくはWikipediaの山城屋和助の項等を参照してください。

そのため明治の終わりごろには、講談等の演目になっており、たとえば『山城屋和助 商界奇傑』という講談速記本が明治四十三年(一九一〇)に出ています。とにかく山城屋和助は、明治大正を通じて良くも悪くも講談などによってよく知られた人物であり、そのため様々な脚色がなされているようで反面、そこに語られている話に関しては信用できるものが少なくて困ります。仮に『森田大人と鞄』という本が見つかったとしても、このあたりは注意して読む必要がありそうです。

また、森田直七に関連して、「カバン」という言葉を名古屋の博覧会の褒賞状に見ることができるという話も簡単ながら同書に収められています。参考までに引用しておきましょう。

明治十一年に名古屋で愛知縣博覽會が開かれた際、大阪の森田直七が名古屋の同業者竹内伊右衛門氏の名儀を以て鞄を出品したが、その褒狀には片假名を以て『カバン』と書いてあつたのである。 出典:『東京鞄商工同業組合沿革史』 (P350)

ここまで見た通り、平凡社の『大百科事典』の典拠は間違いなく『東京鞄業界沿革史』または『東京鞄商工同業組合沿革史』によるものでしょう。

ただ、残念なのは「東京府勧工場に谷澤氏が出品した飾箱の上の看板に〈鞄〉の字が使われた」という事実、そして「これは革包の二字を合体したもの」という事実を実証するものが本人の述懐のみであることです。そして言葉というものは、世の中に広まり人口に膾炙してこそ意味があると思うのです。なんとかこれを裏付けるような客観的な資料は出てこないものでしょうか。たとえば勧工場に関する政府側の記録とかはどうでしょうか。あるいは、もっと早い時期の展覧会、博覧会についてはどうでしょうか?

明治六年 ウィーン万国博覧会

『明治期万国博覧会美術品出品目録』という資料には明治初期の様々な博覧会の出品目録が整理されています。明治六年(一八七三)ウィーン万国博覧会の出品リストの中に「カバン」というカタカナを確認することができます。これが、筆者が現在知りうる限りにおいて、「カバン」という言葉が活字になった最も古い表記です。

二百二十   カバン  竹網代・万筋 二ツ入子 六組
兵庫縣  中村長次郎(元)拾三円五拾銭 壹ツニ付壹円拾貳銭五(売)壹ツ八フロ 壹六フロ
二百廿一   カバン  竹・千筋   四・内三ツ賣店 
兵庫縣  但石田持帰ノ口(売)壹ツ三フロ
二百廿二ノ一 カバン  竹・上千筋  貳       
兵庫縣  但石田持帰ノ口(元)壹円廿五拾銭(売)壹ツ六拾貳銭五厘 (売)四フロ
二百廿二ノ二 小カバン 竹      貳
       兵庫縣         (売)五拾カライツ
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P73)

目録ですから、通し番号が降られ、品目や数量、価格などが記されています。

この資料からは、兵庫県からカバンと言われるものを展示したことがわかります。ただしこの場合の「カバン」は、材料から推測するに繊細な網代の竹細工であるところから、いわゆる現代の「カバン」とは概念がいささか異なるように思われます。

この時期の兵庫県には、姫路近辺や豊岡近辺は含んでいませんから、兵庫県の竹細工というと、有馬あたりの竹細工工芸品だったのではないかと思われます。
仕入れ価格が十三円五十銭で、販売価格が八フロしたと書いてあります。当時のオーストリア帝国の通貨単位は、百オーストリア・クロイツァが一フローリンという単位でした。
どの程度の価値があったのかまではよくわかりません。この展覧会には「胴乱」の出品も確認できますが、こちらも材料は革ではなく藤弦か籐で編んだものが出品されています。

四百五十一  胴亂 藤・花組真鍮 三  
東京 (元)花組貳拾貳円 一拾壱銭円ツツ  
           (雑)網代五円五拾銭  
(売)五拾フロ 三拾フロ 宮川分八拾フロ  
四百五十一 胴亂 藤・二段口小型  
       ・宮川製 (元)拾壹円  
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P85)  

こうしたことから、当時の「胴乱」「カバン」「提籃」等の区別は現在とは違うものだったか、そもそも境界が曖昧だたったか、あるいは地域差やを含んだものだったのではないかと考えます。
更にカバンとは関係ありませんが、この万博には「ランドセル」の出品もありましたので、メモ代わりに書いておきましょう。

五百廿八 ラントーセル  骨柳 壹   豊岡縣  
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P89)  

骨(こつ)柳(ごおり)というのは柳行李のことなので、これも今のランドセルのイメージとは少々異なるようです。

明治十年第一回内国勧業博覧会

こうしてウィーンやパリなどで博覧会が開催されるようになり、その隆盛や国家的意義を理解した明治政府は、明治十年に上野ではじめて国家事業として勧業博覧会を開催します。
日本中から農業産品や工業品、手工芸品、絵画、陶器、美術品等を一堂に集め、展示しました。そしてその中に、谷澤禎三氏の制作した「提嚢」も含まれていたというのが谷澤氏の述懐でした。

明治十年内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録

『明治十年内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』という資料にあたって調べてみると、鞄関係の受賞者として、たしかに奉公先であった日本橋区通三丁目の大阪屋川上藤兵衛の名前が残っていました。もう少し鞄関係と思われる受賞者の名前を見てみましょう。

鳳紋賞牌 革包各種  福田政次郎        (東京府十二)
花紋賞牌 提嚢各種  川上藤兵衛        (東京府廿五)
花紋賞牌 革包各種  高橋新次郎        (東京府廿五)
花紋賞牌 革包    林龜吉          (東京府廿六)
花紋賞牌 革包文匣  村上淸兵衛        (東京府廿六)
花紋賞牌 支那型革匣 高橋茂八         (東京府九十三)
褒状   革包    水戸路卯之助       (東京府九十四)
同    同     加藤源次郎        (東京府九十四)
褒状   杞柳製提匣 三木善平         (兵庫縣四)
出典:『(明治十年)内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』
(カッコ内はページ番号)

ただ、『沿革史』では、高橋新次郎氏の「革包各種」の受賞に関し、少しだけ情報が付加されています。

そこには「又芝の高橋新三([ママ])郎氏の出品は『丸型革包』として花紋賞牌を授輿せられた」とあり、これをもって当時「革包=カバン」と読んでいたとしています。高橋氏が花紋賞牌を受賞したのは確かですが、出品物は前出の『人名録』の表現では、単に革包各種となっており、丸型であるという情報は見当たりません。また、その革包を「カバン」と呼んでいたのかは、資料からは読み取れません。
これらから考えると、高橋新次郎氏当人あるいは関係者から、そういう証言を得て、周囲の人々も異議を唱えなかったと考えるべきでしょう。(『沿革史』では新三郎となっていますが、『人名録』では新次郎となっていますが同一人物でしょう。)

ここまで「カバン」と思われる記録をざっと並べてみましたが、ここで注意しておきたいのは「革包」が必ずしも今の「カバン」の概念を意味していたわけではないということです。

たとえば、匣、篋、筐などで表現される箱類もいろいろ出品されており、この中には単なる箱もあればトランクのような運搬可能なものも含まれているように思われます。衣篋、小衣篋、編竹衣篋、省籐提筐、擬革紙文匣等の記述だけから、それが現代の感覚で「カバン」なのかどうかは、なかなか判別しがたいところです。

篋はおそらく竹製の箱でしょうし、匣は木や紙等で作られたものだと思われますが、それが単なる収納箱だったのか、運搬の用途に使われたのかはよくわかりません。字面だけで考えると省籐提筐などは、籐製のバスケットのようなものだったのかもしれません。

更に「革包」については、たとえば兵庫県からは数名が革包家具という物を出品していますが、これは姫路の革文庫の技術を応用し、文字通り革でくるんだ家具だったようで、我々が現在思い浮かべるようないわゆるカバンでは無かったようです。

鳳紋賞牌 革包家具  平井市平          (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具  浦上卯三郎         (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具  浦上卯七郎         (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具  三木善平          (兵庫縣一)
出典:『(明治十年)内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』
(カッコ内はページ番号)

内国勧業博覧会委員報告書

『人名録』とは別に、『内国勧業博覧会委員報告書』という資料もあります。この中では今後産業として育成すべきかどうか等の観点から出品物の論評が簡単に載っています。

先の「革包家具」については「浦上及平井等ノ革箪笥及文庫等悪シキニハアラザレドモ箪笥ニ造ルハ好マシカラス。小箱若クハ女用ノ小ナル手提物又ハ旅行ニ用ウル物書キ台ノ類ヲ造ラバ佳ナラン。」とあります。

つまり、小さなものならともかくタンスに革を使うのはいかがなものか、ということで、あまり評判はよろしくなかったようです。つまりこの例では「革包」は私たちの考える「カバン」ではなく文字通り革で包んだ家具という意味で使っているのです。はたして「革包」と書いて「カバン」と呼んでいたのかどうかは不明です。

内国勧業博覧会列品訳名

この時期、まだ「カバン」という読み方は『内国勧業博覧会列品訳名』という資料でも確認できません。
この冊子は博覧会の出品物名に英語の対訳を付した資料です。漢字、読みがな、英語が記載されています。カバン関係の用語を抜き出してみましょう。

胴乱 (ドウラン) A portmanteau (P49
革袋 (カハブクロ) (器)A travelling bag (P78
革文庫(カハブンコ) (器)A leather-box (P78
提籃 (テイラン) A baomboo refieule (P226
手提 (テサゲ) (器) A bag (P230

出典:『内国勧業博覧会列品訳名』
(カッコ内の数字はページ番号)

一番気になる「提嚢」や「革包」については残念ながら対訳が載っておらず、当然読み仮名もわからないので、提嚢や革包が当時どのように読まれていたのかは定かではありませんが、少なくとも上に掲げた関連用語においては「カバン」という読みはしていなかったようです。また、「革盤」という言葉も見当たりません。

明治十一年名古屋博覧会

前述した1876(明治11年)に、名古屋で開催された博覧会というのは、名古屋博物館のオープニングイベントとして開催された博覧会のことと思われます。東京大学総合図書館には「田中芳男文庫」という蔵書があり、この中に『名古屋博覽會出品目録、全賞牌授與審査薦告評語』という資料がありますので、恐らくはこの中に掲載されているのでしょう。筆者は残念ながらまだ確認する機会に恵まれていません。

明治十一年パリ万国博覧会

ついでに同年明治十一年(一八七六)に開かれたパリ万国博覧会では、「姫路革カパン、文庫 浦上卯七郎」という表現が確認できます。こちらもカパンとはいうものの、「文庫」と書いてありますので、姫路の皮革を使用した書状入れではないかと推測します。

明治十三年宮城県博覧会

明治十三年(一八八〇)には、宮城県博覧会が開催されます。
明治十三年宮城縣博覧會出品目録』によれば、折山藤助氏が「カバン」を一七個、辻市太郎氏が「手提」を4個出品しています。
さらに秋田県の業者の出品物には「胴乱」も見られます。

角枕   一個
兜形氷嚢 二 手提   四   東京府日本橋區鹽町 辻 市太郎 (二區十
文庫   三
靴    八

帽子  十八個
カバン 十七個
剣術道具 二組  同府下源助町  折山藤助 (二區十三
槍術道具 一組
竹刀   五本

印籠 二
胴亂 三    同 仙北郡角館町 渡邊万蔵

いずれも出典は『明治十三年宮城縣博覧會出品目録』

辻市太郎氏の出品物は、上では省略していますが帽子がメインのようです。様々な帽子とそれに合わせる靴やカバン(手提)を扱っていたのではないでしょうか。
折山藤助の出品物は明確に「カバン」と表記しています。

つまり二人とも、鞄専業というわけではなく小間物の中の一つとして展示していたようです。なお折山氏はこの後に第二回内国勧業博覧会にも出品し、更に東京西洋小間物商組合のメンバーとなっていますので、すこし名前を覚えておいてください。

ここでの問題は「カバン」や「手提」の素材です。ウィーン万国博覧会での素材は竹で、このあとの第二回内国勧業博覧会では革素材となるため、その直前の宮城県博覧会での出品物の素材が何だったのかが重要だと思うのです。残念ながら、今のところこれを確定する証拠は見つけることができていません。ただ、折山藤助の出品物を見てみると、カバンの他に、竹刀や剣術・槍術道具や帽子が記載されています。もしかするとこれらはすべて竹を原料とする製品だったのではないでしょうか。つまり折山藤助の出品しているカバンとは、竹で制作したバスケット状のものだった可能性があります。

明治十四年 第二回内国勧業博覧会

明治政府は、明治十年の内国勧業博覧会が好評だったのを受け、その後第五回まで勧業博覧会を開催しています。

第一回内国勧業博覧会 明治十年  (1877年) 東京上野公園  
第二回内国勧業博覧会 明治十四年 (1881年) 東京上野公園  
第三回内国勧業博覧会 明治二十三年(1890年) 東京上野公園  
第四回内国勧業博覧会 明治二十八年(1895年) 京都市岡崎公園  
第五回内国勧業博覧会 明治三十六年(1903年) 大阪市天王寺今宮  

第二回の内国勧業博覧会は明治十四年(一八八一)の3月から6月に東京上野公園で開催されました。博覧会終了から半年後にまとめられた、明治十五年(一八八二)一月十五日出版の記述がある『第二回(明治十四年)内国勧業博覧会審査評語』によると、革製の旅行鞄を「革包」と表現している例を見ることができます。

仝 革包   東京府京橋區南傳馬町 早川八五郎
革質精良縫綴緻密製作堅固ニシテ旅行ノ用ニ適ス其有功嘉賞ス可シ
仝 革包   東京府芝區源助町 折山藤助
薦告文同上
P171

仝 革包   東京府京橋區南伝馬町 林てう
革質精良縫綴緊密旅行必需ノ具ニシテ運搬ニ便ナリ其有功嘉賞ス可シ
P172

仝       大坂府東區北久寶寺町 柳田卯兵衛
練熟ノ製著色最モ得タリ能ク携帯ノ用二適ス頗ル嘉ス可シ
P187

仝 竹製革包 大坂府東區唐物町 北村半兵衛 練熟ノ製著色最モ雅致アリ釘鉸モ稍□ヲ用イ携帯ノ用ニ適ス頗ル嘉ス可シ
P188

仝 革製器   兵庫縣播磨國飾東郡姫路東二階町 平井市平
製革別ニ改良ノ点ナシト雖モ能ク常用ニ適ス其紋革ハ画紋□色共ニ未タ精ナラス然レ□塗漆稍軟□ニシテ椅子包装ノ用ニ充ツルヲ得可シ尚勉メテ画紋ノ改良ヲ加ヘハ其用尤モ廣大ナラン蒐輯ノ労頗ル嘉ス可シ
P201

仝 革製器 兵庫縣播磨國飾東郡姫路福中町 浦上卯七郎
畳折革包ノ□縫合未タ精ナラスト雖モ稍舊套ヲ脱シ實用ニ便ナリ其他ノ文匣制作練熟ニシテ殊ニ普通ノ画紋ヲ用イス頼山陽ノ□ヲ打出スル意匠頗る嘉す可シ
P201

仝 袋物類  東京府下谷區下谷数寄屋町 櫻井利七
各種共に制作□佳ニシテ形状宜シキニ適シ且ツ往々注意ノ至レル所アルヲ視ル其有功嘉賞ス可シ
P201

カッコ内はページ。いずれも出典は『第二回(明治十四年)内国勧業博覧会審査評語』
□は印刷が潰れて判読できない文字。

革包を出品している早川八五郎氏は、谷澤氏が業界創成期の同業者として名前を挙げていた早川氏のことでしょう。

また、ここで注目したいのは宮城県博覧会に「カバン」で出品していた折山藤助が、第二回内国勧業博覧会では「革包」で出品していることです。この「革包」の評語には「革質精良縫綴緻密製作堅固ニシテ旅行ノ用ニ適ス」や「革質精良縫綴緊密旅行必需ノ具ニシテ運搬ニ便ナリ」という評語が付けられており、革製の旅行鞄を指すものとなっていることがわかります。

つまりこのときの出品は箱類ではなく、旅行鞄であったことは間違いありません。宮城県博覧会で折山藤助がどのような作品を出したのかはわかりませんが、第二回内国勧業博覧会に出品する一年前の宮城県博覧会の時点で既にカバンという言葉を知っており、それに類したものを第二回でも出品したと考えるのが自然だと思われます。

なお第二回では、「竹製革包」というものも出品されています。つまり、この時期の表現としては「革包」は革製が基本で、竹製や籐製もあるという状態だったと考えられます。このほか「手提革包」「洋服櫃」「提革嚢」「胴亂」「袋物」等様々な表現がみられます。

またこの時期「革包」が「カバン」と読まれていたことが確実になります。展示品一覧を英訳した『内国勧業博覧会列品訳名 農商務省博覧会掛編』という資料にフリガナで「カバン」と表記されているのです。

胴亂(ドウラン) A portmanteau (器材類P25
革包(カバン) Valise (器材類P40
革袋(カハブクロ) A travelling-bag (器材類P40
革文庫(カハブンコ) A leather-box (器材類P40
提籃(テイラン) A bamboo refieule (器材類P119
提革嚢(テサゲ) portmanteau (器材類P122
手提革包(テサゲカバン)(革包(カバン))ニ同シ (器材類P122
提佩嚢(サゲドウラン) A portmanteau (器材類P130

出典:『内国勧業博覧会列品訳名 農商務省博覧会掛編』 (カッコ内はページ)

カバンという言葉さえなかった第一回と比べてみると、いろいろ変化があります。 まず、第二回においては、革包と書いてカバンと読ませていることが明確にわかります。Valiseはスーツケースの事で、いわば大型の旅行鞄と解することができます。
胴乱と提革嚢(てさげ)はいずれもportmanteauの訳をあてているのもちょっと面白いです。同じものと解されているのも面白いですが、誰の指南でこのportmanteauという訳語をあてたのでしょうか。これはフランス語経由の単語です。フランスの影響を受けた陸軍経由で入ってきたのでしょうか。

そして鞄の扱いが、服飾類ではなく器材類に分類されているというのも時代を感じます。

しかしここでは、まだ「鞄」という文字は登場していません。もし、谷澤氏が1878年(明治11年)に勧工場で考案した「革包」を「鞄」と表記してカバンと読ませる方法が広まっているとすれば、第二回内国勧業博覧会では、既に採用されていてしかるべきですが、この時点ではまだ「革包」が主流だったようです。

明治二十三年 第三回内国勧業博覧会

第三回の内国勧業博覧会は、1890年(明治23年)の7月から8月に実施されました。

この頃『言海』の出版状況はというと、この年の五月に第三冊が発売され最後の一冊を残すだけになっていました。「カバン」の項が載っている第二冊は前年の10月にすでに発売されています。また、詳しくは少しあとで記述しますが、明治23年7月発行の『東京買物独案内』に谷澤鞄店の広告が掲載されていることから、第三回内国勧業博覧会開催までには谷澤鞄店がオープンしていることが確認できます。

いずれにしても、この時期には鞄は急速に商品として一般化し、鞄産業そのものが発展し、受賞者も増えていることがうかがい知れます。
『第三回内国勧業博覧会褒賞授与人名録』を見ても受賞者が増えており、そのことが良く分かります。

二等有功賞  大鞄、提鞄、口開提鞄 同府京橋區銀座二丁目  林謙吉郎

(P5)

三等有功賞  旅用鞄           同府京橋區南傳馬町    早川八五郎  
            鞄          同府京橋區南傳馬町    相塲新吉   

(P17)

すこし飛んでおなじく三等有功賞として大阪の業者も出てきます。

           鞄各種         同府南區高麗橋     森田直七

(P23)
この森田直七も日本でカバンを初めて作り始めた人と言われている人です。

褒状       大鞄、提鞄            同府日本橋區通三丁目    川上のぶ  
           提鞄                  同府同區横山町          佐藤伊右衛門  
           大鞄 二號             同府芝區愛宕下町四丁目  村上五郎左衛門  
           同                    同府本所區松井町        五十幡宗吉  
           大鞄 六號             同府神田區鍛治屋町      富澤文藏  
           提鞄                  同府日本橋區本町        小和田順之助  
           大鞄 四號             同府神田一ツ橋通町      小松崎董太郎  
           莫大小小手提小鞄      同府本所區柳島横川町    駿河徳次郎  

(P57)
出典:『第三回内国勧業博覧会褒賞授与人名録』

3回目を迎える内国勧業博覧会では、ようやく「カバン」を表記するのに「鞄」の文字が使われ始めました。
上記のうち、大阪の鞄づくりの先駆者として名前が挙がっていた森田直七氏は大坂府から出品しています。その他はすべて東京府です。

ただし『内国勧業博覧会参考品目録』を見ると、「鞄」がある一方で、「革包 福田清五郎」や「革包 小和田順之助」の記述も見られます。
この時点では出品者の中でも革包と鞄が混在していたのか、あるいは形状等で何らかの使い分けがあったのかもしれません。ただ全体的に「革包」を使用しているケースは少なくなり、圧倒的に「鞄」が使われるようになっています。

再び東京府勧工場の話

さて、長々と博覧会における「カバン」を追いかけてきましたが、谷澤氏をめぐるもう一つのキーワードは勧工場(かんこうば)でした。時間を少し戻して、今度は勧工場を中心に流れを見てゆきましょう。

第一回内国勧業博覧会で出品したものを「残品処分」するために辰の口門前(現在の丸の内三丁目)でまとめて販売することになったのは、谷澤氏の回想のとおりです。

この政府主導による販売が「勧工場」と呼ばれるものの事始めで、今でいうところのショッピングモールです。

この勧工場は、(今では当たり前の販売形態ですが)一つの大きな建物の中に複数の店舗が入り、商品を陳列して正札で販売するという特徴を持っており、呉服屋が百貨店というビジネスモデルで巻き返してくる明治後期までは、時代の先端を走る小売り形態だったようです。それが証拠に明治の終わりころには東京都心近辺だけでも二十近くの私設勧工場が出来、地方都市にもこのビジネスモデルが普及してゆきます。

さて、この東京府勧工場は約十年に渡る官営事業の後、民営化するために、1887年(明治20年)3月に一旦上野公園に仮移転し、その後1888年(明治21年)に芝公園に移動しています。この頃には東京のみならず日本全国に民間の勧工場が広がりつつあり、政府主導で運営する意味が薄れたということもあるのでしょう。とにかく民間に払い下げられます。

ここで思い出すのは、『沿革史』にある「明治二十年に暇乞をして同年十一月に独立開店しました」という谷澤氏の述懐です。
当時の谷澤氏は、川上藤兵衛氏の元で長らく奉公している状態でした。(川上商店が東京府勧工場に出店していたのか、10年間にわたり出展し続けていたのかどうかは定かではありません) 鞄産業の隆盛に加え、勧工場の民営化の話が谷澤氏独立の契機になったというのは考えすぎでしょうか。

明治20年の暇乞から明治23年の銀座一丁目店舗移転までの谷澤氏の足取りについては、1954年(昭和29年)発行の『日本鞄業総覧』に以下の記載が参考になります。

(谷澤)翁はこの店で14年間修業した後、明治20年当時の京橋南伝馬町(現在の京橋二丁目風月堂あたり)に独立して鞄商を開業、現在地には明治33年移ったという

(商業篇P24)

明治33年が明治23年の誤植だと考えれば、つじつまが合います。
ここで思うのは、この谷澤氏の独立駆け出し時代に谷澤氏のお店を大槻文彦氏が訪問したのかどうか、そしてもし訪問していたならばそこで「鞄」あるいは「革包」という文字を見たのか見なかったのか、ということです。この時期まさに草稿版言海を元に私家版言海を執筆していた時期と重なるだけにこの謎は深いものがあります。

1824年『江戸買物獨案内(えどかいものひとりあんない)』

当時の店舗の状態を知るための情報として、当時のタウン誌、情報誌をチェックするという方法があります。それらは店舗便覧や紳士録といった形で出版されています。代表的なものを見てみます。
まず、少し古いところで江戸時代の資料を見てみます。『江戸買物獨案内』は中川芳山堂という版元が1824年(文政7年)に出版したもので、上下巻500ページに加え、飲食の部が30ページという大部のガイドブックです。ここには小間物屋が扱うものとして、胴乱が登場します。もちろんまだ「カバン」は出てきません。

ときどき見かけるのは「胴乱」です。もともとは弾丸を入れるためのショルダーバッグあるいはポシェットのようなもので、江戸の末期になるとファッションアイテムの一つとして定着しています。

大和屋藤兵衛 馬喰町一丁目    小間物卸 胴乱鼻紙袋金物問屋     (P92)
和泉屋吉藏  通鹽町       金物類卸 どうらん 鼻紙袋      (P92)
松坂屋又兵衛 京橋南傳馬町三丁目 御煙草入處 御鼻紙入 革提類 羅紗更紗唐草類京都織物根附緒メ類     (P329)
菱屋治兵衛  室町三丁目     御袋物煙艸入處 御鼻紙袋 革提るい(P331
廣瀬屋嘉七 鼻紙入 煙艸入 袋物卸 胴らん金物品々 根附緒止

丸角屋次郎兵衛 本町二丁目    小間物 袋物類 問屋 
越川忠右衛門  浅草田原町三丁目 御袋物所 京都織物類品々 羅紗更紗類品々

江戸買物独案内 問屋之部 112コマ

胴乱以上に多いのが、袋物という表現ですが、これはカバンというよりも女性が持つ信玄袋のようなものなので、すこし違うように思います。
それ以外に気がかりなのが「提物」「革提」という表現です。特に「革提」は明治に入り、「カバン」とふりがなが振られます。江戸時代と同じものを指していたのかどうかはわかりません。

越川屋忠兵衛   下谷仲町 御袋物師 江戸一家
相生屋新兵衛  下谷池之端仲町 御袋物所
長谷川市兵衛  本町四町目大横丁 御烟草入 御鼻紙袋 御帯地類品々 唐革 唐更紗 唐羅紗類 五良服連 京都織物類
宮川長次郎   江戸小網町一丁目てりふり町 和漢 き_地皮__ _きれ御仕立帯_
御紙入 御多ばこ入 品々
菱屋彦八    山下御門通 南鍋町 御鼻紙袋 御煙艸入 所 萬袋物諸色 羅紗類織物切地
伊勢屋與八  山下御門通 南鍋町一丁目 御鼻紙袋 御煙艸入 印伝其他御誂物提物 家久嶌本家
伊勢屋長七  横山町一丁目 御袋物問屋 鼻紙袋 烟草入れ
丸屋利助   日本橋通二丁目 袋物類 羅紗更紗品々 唐和革堤類 紙煙草入類 御金物類品々

江戸買物独案内 問屋之部 113コマ

播磨屋善九郎 たばこ入 革堤類  廣屋茂兵衛 横山町壹丁目 唐革類革堤類金物類 袋物類卸小売
亀屋清七 通油町南新道 根付 緒止 鼻紙袋 革堤 所

明治十二年『東京名工鑑』

1879年(明治12年)に東京府勧業課が発行した『東京名工鑑』を見てみます。ここには、馬具工や袋物工は見えますが、鞄関係と思われるのは嚢袋工だけで他には見当たりません。

嚢袋工                二百五十丁
 森川吉兵衛 堀川平助 川野榮次郎 
関口善廣 藤井龜吉 南保是藏
小川爲安 小松嘉兵衛

出典:『東京名工鑑』(15コマ
(カッコ内は近代デジタルライブラリーのコマ番号)

『東京名工鑑』は、冒頭に業種毎の職人一覧があり、本編で各業種の代表的な職人についての詳しい来歴や技術の特徴等を細かく記す構成になっています。

袋物工についても数名が記載されているのですが、来歴や作品の特徴を読む限り、煙草入れなど、いわゆる袋物、小物を制作する職人であり、「カバン」の職人という感じではありません。

唯一、小網町一丁目の袋物メーカー宮川長次郎のもとにいる職人三名に「カバン」関係の記述が見えます。川野榮次郎という煙草入れの内貼職人の項に胴乱の文字が確認でき、また、袋物の部品を制作する吉川萬藏と桜皮細工職人の本田幸太郎の記述の中に「カバン」という言葉をみることができる程度です。長いですが少し見てみましょう。

             日本橋區村松町十四番地  
袋物工                    川野榮次郎  
                           三十四歳  
所    長    和洋風仕立て巻烟草入内貼  
製造種類    紙入 煙草入 巾着 手胴亂 袋縫  
嘱 品 家    小網町一丁目宮川長次郎  
助工人員    五名  
博覧會出品  
内国博覧会ヘ宮川長次郎ノ出品セシ洋服持  
煙草入和洋兼仕立烟草入並ニ巻烟草入ノ内  
貼リ等ヲ製造シテ鳳紋賞牌ヲ受ケ澳國博覧  
會ヘ同人ノ出品セシ竹ノ皮貼リ巻煙草入紙  
入ヲ製造シテ二等賞牌ヲ受ケ米國博覧會ヘ  
同人ノ出品紙入ヲ製シ佛國博覧會ヘ同人ノ  
出品セシ手札仕立並ニ烟草入ノ内貼リヲナ  
セリ  
開業及沿革  
父次郎助ヨリ傳習シ二十七歳ノ時家ヲ継繼キ  
九年前頃ヨリ宮川ノ注文ニテ貿易品ヲ製造  
セリ故ニ四五年前ヨリ漸々盛大ニ至リ其景  
況ヨロシ  

出典:『東京名工鑑』(366コマ)

            芝區車町三番地
木及牙角小細工             吉川萬藏  
                          五十四歳  
所    長 象牙網代組  
製造種類 烟管筒、巻烟草入、カバン枠、杖及ヒ蝙蝠傘握、烟草入金物ノ類  
嘱 品 家 小網町一丁目袋物宮川長次郎  
(以下略)  

出典:『東京名工鑑』(451-452コマ)

櫻皮細工 元柄巻工 神田區三崎町二丁目一一番地 本田幸太郎 四十二歳  
所長 櫻皮挽き  
製造種類 櫻皮製 鯨製 烟管筒、巻烟草入  帽子 カバン  
嘱品家 小網町一丁目袋物宮川長次郎浅草芽町伊勢屋松兵衛  
(以下略)  

出典:『東京名工鑑』(455コマ)
いずれもカッコ内は近代デジタルライブラリーのコマ番号。

川野榮次郎氏の説明を読むと、洋服にも合う煙草入れを制作しウィーンやパリなどの海外の各種博覧会で好評を得、以後海外輸出用の煙草入れを製造して景気も良いと書いています。先のウィーン万博の出品物で「胴乱 宮川製」とあったのは、おそらく川野氏の手になるものでしょう。

また、川野氏は内貼り、吉川氏は金枠、本田氏は桜皮巻等、当時の袋物の一般的な製造工程と同じく分業制で製造されていたこともうかがい知ることができます。
不思議なのは、川野氏の欄では「胴乱」と書かれ、吉川氏、本田氏の項には「カバン」とあることです。たとえば下職では「カバン」と呼んでいて、職長とか販売側では「胴乱」と呼んでいたというようなことがあるのでしょうか。それとも川野氏の記述はウィーン万博出品時の記録を踏まえたものなのでしょうか。

この本の中には、馬具工もいくつか挙げられていますが、せいぜい牛込箪笥町四番地の村上清兵衛(三十三歳)について、内国博覧会で牛革製の文庫が家紋賞を受けたと記している程度で「カバン」につながる記述はみあたりません。
ちなみに、靴関係は日本で鞄産業を立ち上げた西村勝三氏の元で働いていた職人が既に多く掲載されており、このあたりにも靴と鞄の浸透度合いの差を見ることができます。

1885年(明治18年)『東京商工博覧絵』

次に『東京商工博覧絵』をチェックしてみます。この本は『東京名工鑑』から六年後の明治十八年(一八八五)に出版されたショップガイドです。この冊子には、お店の案内が掲げられ、店舗の様子がイラストで描かれています。煙草入れを販売しているお店は掲載されていますが、残念ながら「カバン」は見つかりませんでした。川上藤兵衛氏の名前も見当たりません。ただ、気になるお店はあります。

日本橋区室町三丁目四番地 算盤柳竹合利 諸國産文庫類 
大坂屋幸島市右ヱ門                     (77コマ)

算盤所・柳合利・竹合利・文庫類 東京大伝馬町三丁目 問屋 
菊屋浅野三次郎                       (79コマ)

いずれも出典は『東京商工博覧絵 下』 
カッコ内はデジタルアーカイブのコマ番号。

この2つの店舗、「カバン」の文字はありませんが、取扱商品が「カバン」に近いことや革と箱モノの接点として興味を引きます。しかも大坂屋幸島市右ヱ門の店舗イラストには、店頭の看板に「姫路革文庫」「算盤所」と書かれています。ここから当時、東京・日本橋では、「姫路革文庫」はブランドとして名前が通っていたこと、そして文庫がそろばんや柳行李等と一緒に売られていたことがわかります。

ちなみに、大坂屋幸島市右ヱ門というお店は、江戸時代には「下りからかさ問屋」だったことが、『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』(中川芳山堂)に載っています。かつての傘問屋がこの時期そろばんや柳行李を売っていたのですね。

そろばん、行李、文庫に共通する事とはなんでしょうか。文房具関係ということもできますが、かつて傘問屋だったことも含めて考えると、竹細工や木工芸に関係する商品という関係も考えられます。あるいは、そろばんは播州・小野、行李は丹波・豊岡、文庫は姫路が産地であることから、船便等の輸送や仕入れルートの関係で現在の兵庫県近辺とのつながりの深い商売ということなどが思い浮かびます。

1888年(明治21年)『東京商工組合姓名録』

今度は『東京商工組合姓名録』という資料を確認してみます。

今までの資料と違い、ここには当時の様々な同業組合とその構成企業が記されています。出版は1888年(明治21年7月ですから、川上藤兵衛も商売をしており、谷澤氏も川上商店から独立した直後という状態です。

この中に東京西洋小間物商組合(P8)という組合が載っているのですが、見知った名前は折山藤助氏ぐらいで、川上氏も谷澤氏も見当たりません。

折山氏は先に見たように宮城県博覧会では帽子の出品がメインでした。東京西洋小間物商組合は、どうも帽子等がメインの組合のようで、折山氏も帽子の業者として参加していたのではないかと考えられます。

たしかに、明治の紳士の服装というと、和服に帽子をかぶっているイメージがあります。洋服が流行する前に西洋の小間物として帽子が普及したのでしょう。このあたり、鞄の普及との違いを感じます。

1889年(明治22年)『北越商工便覧』

その翌年、1889年(明治22年)の8月には、新潟の高田・刈羽地域の店舗や会社を集めた『北越商工便覧』(高田・刈羽版)が出版されています。ここでようやく「かばんるい」の文字を見つけることができます。

西洋小間物卸小賣商 高田横町 神林佐右ェ門
出典:『北越商工便覧』(26コマ)
(カッコ内は近代デジタルライブラリーのコマ番号)

この店舗のイラストには、のれんと看板が描かれています。看板には「革盤類、蝙蝠仐、靴類、小間物、帽子類、卸小賣 神林店」と書かれており、のれんにはそれを平仮名にして「かばんるい、かふもり仐、くつるい、こまもの、ぼうしるい、おろし、こうり、神林店」と書かれています。明治二十二年(一八八九)においても、地方では「革盤」と書いて「かばん」と読んでいたことがわかります。

ここまでをまとめると、1879年(明治12年)頃までには「カバン」という言葉が職人間で使われていたようですが、店頭や広告宣伝するような代表的な商品としての地位には、1888年(明治21年)頃までは至っておらず、また独自の組合を結成するまでの市場規模にも至っていませんでした。1889年(明治22年)頃には、地方都市でも「カバン」の言葉が使われるようになっていたことがわかります。

「鞄」の文字が急に溢れ出す1890年(明治23年)『東京買物独案内』

『北越商工便覧』から一年経った、1890年(明治23年)に大きな変化が訪れます。

この年になると東京では「鞄」の文字が当たり前のように溢れ出すのです。

同年6月末に出版された『商人名家 東京買物独案内』という冊子があります。これは明治18年の『東京商工博覧絵』と同じような内容ですが、その夏に開催される第三回内国勧業博覧会のオープンにあわせ、地方から上京する人々を当て込んで企画出版されたものなのでしょう、大変分厚い冊子になっています。ここには今までの資料と違い、谷澤氏をはじめ、鞄の製造販売をメインとする商店が現れ、かつ十店舗を超える商店が「鞄」の文字を使っています。早速見てみましょう。

京橋区銀座二丁目    林商店    馬具馬車具・鞄靴革具
(P17)
ここは馬具類から革つながりで鞄や靴を販売していたお店でしょうか。

京橋区銀座壱丁目    谷澤鞄専業廛 旅行用鞄・手提類各種
正直賣ノ勉強廛、品質の精良堅牢なると價格の低廉なるを以て高評を博せし弊店製手提鞄の儀は尚一層勉強の安賣士候間御用向を乞
(P78)
銀座一丁目となっていますので、現在の銀座タニザワにつながるお店です。明治23年に移転したということだったので、移転してすぐの広告ということなのでしょう。ただし、「鞄」という文字が自分たちが考案したものだという主張は無く、勧工場から移転したという情報もありません。

京橋区南伝馬町二丁目  紀伊国屋善之助 鞄手提・ゴム靴  卸・小賣
(P78)

このお店はその後の動きがわかりません。

日本橋区通三丁目    川上藤兵衛 和洋鞄類
(P78)

ここが谷澤が丁稚奉公したお店。 通三丁目は、現在の日本橋三丁目付近となります。

京橋区銀坐二丁目    薄井商廛 
手提鞄類・旅行鞄類・図嚢類・肩掛類・馬車挽道具類・馬具類・各種革具製造販賣
(P78)

このお店はその後の動きがわかりません。

京橋区南伝馬町壱丁目一五番地 鞆繪屋洋傘廛
同町同番地       鞆繪屋洋品廛
同町一六番地      鞆繪屋鞄廛
同町同番地       鞆繪屋靴本廛
(P82)

「鞆繪屋洋傘廛」は「ともえや・ようがさてん」と読むと思われる。傘、小物、鞄、靴の4店舗を隣続きで商っていたのでしょうか。

京橋区銀坐三丁目    野田屋更作 洋品小間物商
洋服付属品一式其外化粧品種々、旅行用鞄其外各種
(P82)

日本橋区横山町壱丁目  大和屋 小林利兵衛 
革莨入・筒金物・巻葉入・手提鞄・靴類 商廛
(P93)

革莨はタバコのこと。つまり煙草、キセル、葉巻の入れ物類を扱っているお店だったようです。

東京横山町二丁目    播伊商廛 
革煙草入袋物、手提鞄問屋
製造物品ハ改良進歩ヲ旨トシ、値段は頗ル廉価ニ販売シ、他廛ニ一歩譲ラザルヲ證ス、専ラ諸君ノ注文ニ応ズルヲ務ム
(P93)

日本橋区通油町     大和屋 小林藤兵衛
革莨入・袋物・手提鞄・巻葉入・諸革類問屋
(P94)

このお店は「大和屋 小林利兵衛」となにか血縁関係にあったのでしょうか。

日本橋区大伝馬町二丁目 菊屋 浅野三次郎
算盤問屋、学校用躰操器具類、手提肩掛旅行用鞄、柳合李竹合李一式、姫路革諸文庫各種
(P100)

このお店は、そろばんや体操器具など学校用品を販売することが主のようです。 そろばんは兵庫県・小野市の特産品、柳行李は兵庫県・豊岡市の特産品、姫路革文庫はもちろん兵庫県・姫路市の特産品であることから、兵庫県に仕入れルートがあったのでしょうか。

日本橋区室町三丁目   大坂屋 幸嶋市右衛門
算盤類一式、柳合李類、信濃陸中竹合李、姫路革文庫類、地方及西京製文庫類
(P101)

このお店も同様に、兵庫県ルートの品ぞろえに長けており、加えて陸中の竹行李を扱っていたようです。

神田区鍛冶町      伊勢屋 富澤文藏
舶来ゴム靴、革靴、カバン馬具類、問屋
 (P140)

京橋区銀座二丁目    林商店
鞄靴革具、馬具馬車具
P141

まさに鞄、鞄、鞄です。このとき既に専業の鞄店が出現しています。また、革というくくりで靴と一緒に販売していたり、紳士の装身具として、煙草入れなどの小物を扱うお店でも売っていたり、文房具や勉学の必需品として算盤や行李類、文庫類を販売しているお店でも扱うようになっています。果ては、傘、鞄、靴、その他洋品を複数店舗で商品を分けて売るという、今でもありそうな商売の形をしているお店まで出現しています。

1890年(明治23年)の東京大百科『東京百事便』

1890年(明治23年)7月8日に「東京百事便」という本が出版されます。先の「商人名家 東京買物独案内」とほぼ同時期の出版となります。

この本は、東京のことならなんでも載っている便利帳という感じの本です。

紀の國屋  京橋區南傳馬町二丁目十六番地
谷澤商店  仝區銀坐一丁目四番地
林商店   仝區銀坐ニ丁目六番地
薄井福三郎 仝區銀坐ニ丁目六番地
櫻組出張店 京橋區銀坐三丁目十六番地
川上屋   日本橋區通四丁目
池永榮藏  京橋區尾張町一丁目二番地
濱田商店  京橋區出雲町五番地
越後屋   京橋區南金六町七番地
松田屋   芝區源助町二十番地
桐屋    神田區雉子町三十三番地
村上勇雄  神田區連雀町十八番地

321コマ

1891年(明治24年) 訓蒙開知 生徒の革提

1889年(明治22年)の新潟と、1890年(明治23年)の東京の間には、どれほどの産業や情報の格差があったのかわかりませんが、ほんの一年の間でこの変化は小さくありません。何が原動力となってこのような急な変化が起こったのでしょうか。客観的資料からは真相はわかりませんが、「鞄」という文字の普及は、1890年(明治23年)の前半あたりに劇的に起こったことは疑いようがありません。

ただし、全部が全部すぐに「鞄」に置き換わったのかというとそうでもなく、たとえば1891年(明治24年)に東京で発行された『訓蒙開知 生徒の革提(かばん)』という本では、革提という文字にカバンという読みがあてられています。

表紙にはカラーで縦長で黒いショルダーバッグのような学鞄が描かれています。また扉絵には、表紙とは少しちがう横長のショルダーバッグも描かれています。

大阪の商工組合「大阪鞄革具製造組合」と「鞄親会」

この時期、大阪でも組合が立ち上がり始めます。大阪鞄協会のホームページには、「(明治19年)に前身である大阪鞄革具製造組合が設立され、明治・大正・昭和の一世紀にわたり幾多の変遷を経て、昭和二十四年、大阪鞄協会へと発展しました。」とあります。(明治19年)(一八八六)に「鞄」という文字を使って協会を作っているのだとすれば、これは明治二十一年(一八八八)の『東京商工組合姓名録』と比較して、より早い時期の業界団体の結成であり鞄という文字の同業組合への採用となります。
ところが、全国鞄工業組合連合会の顧問だった大日方善吉氏が昭和五十七年(一九八二)に著した『鞄街道百余年』には、大阪鞄革具製造組合の設立は、明治二十四年(一八九一)だった(P27)と書いています。実際のところはどうなのでしょうか。
大阪の鞄関係の黎明期の動きを記した主な書物は私の知る限り以下の通りです。

『森田大人と鞄』               大正五年  (1916年)刊  
『大阪鞄商工同業組合沿革概史』        昭和七年  (1932年)刊  
『日本鞄業総覧』               昭和二十九年(1954年)刊  
『大阪鞄創業百周年 協会結成八十周年記念史』 昭和四十一年(1966年)刊  
『大阪鞄協会創業百周年記念史』        昭和六十一年(1986年)刊  

このうち『森田大人と鞄』は、前述の通り書名だけが伝わっており、現物が確認できていません。また『沿革概史』以降の書籍は、過去に出版された書籍の情報をほぼ孫引きしており、新しい情報はあまり見当たりません。ここでは『沿革概史』を中心に比較的よくまとめてある『日本鞄業総覧』の記述を見てみましょう。

日本で造られた一番最初の鞄が当時文明開花の中心と謳われていた東京に於てではなく、別項の如く明治七年頃森田直七という先覚者によって大阪で創めて造られたのは誠に興味深いことだった。 当時の鞄業は馬具職の兼業等が多く専門の鞄業者というものはなかったのが、 明治十年頃には四十六軒となりその中で三・四軒の専業者が生れていたものが、 明治二十五年頃になると百軒に達し専業者もその半数を占めるようになった。 日清戦役を終えた明治二十八年頃には更らに増加して百四十余軒を数えるまでになったので、 漸く同業者の諸問題を処理解決するために業者団体の必要が痛感されるようになったのは当然のことであろう。
そこで当時業界の有力者であつた豊立丑之助氏が起って先ず同業組合結成の準備として工部業者の団体を組織することに成功、之れを『鞄親会』と命名した。
又翌年には商部業者の団体である盛鞄会が誕生した。 この商工両部門の団体が同業組合設立の基礎となったのだが、この両団体は凡そ半世紀に亘る今日に至るまでの間、その侭に継承されて立派に存在して 常に組合の中心団体たる観を呈しているのである。
豊立丑之助氏は自ら手塩にかけたこの両団体を根拠として明治三十八年―― 則ち日露戦役直後、益々増加の傾向にある専門製造業者を傘下に擁した公共的な団体として 『鞄革具製造組合』を提唱設立していたのであったが、鞄業が日を逐って益々旺になるにつれて職人が払底し、 当然の結果として引き抜き運動等が起り統制上困難を感ずる様になったのみならず、 製品規格も一応制定した方が宜い等の見地から是れを同業組合組織として強制加入権を持つ様にした方が宜い という輿論が次第に強くなって来たので、遂に豊立氏が主唱者となり再三再四上京して 時の農商務大臣松岡康毅氏に陳情の結果明治三十九年十二月大阪府指令商甲一四一〇号を以て組織認可となり、 其後一年有余にして明治四十年八月十二日附で同業組合の正式認可を受けたのであったが是れが大阪に於ける 公式な鞄業者団体の創始となった。

出典:『日本鞄業総覧』(総括篇P38)

要するに大阪鞄革具製造組合は明治三十八年(一九〇五)に設立、翌年に大阪府の組織認可、明治四十年に同業組合として正式認可されたということになっています。『大阪鞄創業百周年・協会結成八十周年記念史』では、もうすこし突っ込んだ情報が補完されています。

組合結成の必要を痛感するものが、明治20年4月に、市内南久宝寺町四丁目、玉水料理店に集合して組合結成のことを決議した。
明治二十四年に、先の結成決議に基いて、大阪鞄革具製造組合(準則組合)が発足した。

出典:『大阪鞄創業百周年・協会結成八十周年記念史』(P136)

このように古い資料では、大阪鞄革具製造組合の設立は、大阪鞄協会の出版した業界史に明確に明治二十年四月と書かれています。なぜ明治19年と明治20年で一年のズレが生じてしまったのでしょうか。 ひとつの仮説ですが、『八十周年記念史』の中で明治20年を1886年と勘違いしているのではないかと思います。この本の冒頭で百周年や八十周年の起算根拠について説明しているのですが、実はそこですでに西暦の計算を一年間違えているのです。

その決定内容をもう少しくわしくいうとならば、―明治二十年(一八八六)、一五六名のものが、一カ所(大阪市南久宝寺町四丁目玉水料理店)に集合、発起人を選出して結成の具体案を作成したので、このときに結成意志が確定したのである。

出典:『大阪鞄創業百周年・協会結成八十周年記念史』(P6)

この記述の後、わざわざ以下のように書き記しています。

言葉にこだわってものをいうようであるが、結成八十周年といって、発足八十周年とはいっていない。それはともあれ、明治二十年に、ハッキリ結成を取決めている記録があるからこれを無視するわけにもいかない

(P6)

『大阪鞄協会百周年記念史』には、冒頭各界の祝辞が掲載されていますが、彼らはおそらく百周年と聞いて、単純に(正確に)逆算して「(明治19年)」と書いた原稿を作成したのだと思われます。いずれにしても、明治二十年(一八八七)の時点では「発起人を選出して結成の具体案を作成」してはいるものの、その組合の名称に「鞄」の文字を入れたのかどうかは、残念ながらこれらの資料からははっきりわかりません。

ところで、もうひとつ豊立丑之助氏が腐心して結成した製造者の任意団体「鞄親会」は日清戦争以後の設立となっています。『日本鞄業総覧』に載っている「鞄親会」の略歴を見ておきましょう。

大阪鞄親会
設立    明治二十九年九月
大阪における最古の団体で、当初は製造業者の有力者が親睦を目的として組織し、毎年一月二十日を総会の開催日と決めていた。

出典:『日本鞄業総覧』(総括篇P227)

この「鞄親会」の初代会長は豊立丑之助氏ですが、二代目は例の森田直七氏なのです。森田直七氏と鞄業界団体のつながりについては、『沿革概史』にほかにもなにか「鞄親会」が記録として残っている古い資料は無いものでしょうか。仮に明治十八年につながる話であれば、「鞄」という漢字の使用に少なからぬ影響を与えているかもしれません。

名古屋の「鞄盛会」

名古屋鞄協会のホームページには、名古屋鞄産業の起源について詳しい説明が掲載されています。説明のベースは、1968年(昭和43年)に発行した『愛知鞄九十年史』に拠っているようです。

名古屋の鞄産業を語る時、この恩師である竹内常次郎氏を抜きに語ることは出来ない。竹内翁は幼少の頃から皮革製品の製造を修めたもので、この道では希代の名工であり、得がたき達人であったと言われ> る。徳川幕末時代、年は若かったが馬具の製作にかけては並ぶものが無く、諸大名から注文を受けた出入りの問屋が、当時競って青年工竹内にその製作を依頼したものだったという。
やがて時代は一変して、明治の黎明期は名工に大きなショックを与え、時代の激変は彼を大いに悲しませたようである。その後数年を経ずして、竹内翁は東京を去り旅に出る。「安住の地を求めて・・・翁> の流浪の旅は東海道を下った。名古屋に辿り着いた若い翁が、名古屋に居を構えたのが明治十年、そして東京で手がけた鞄の製造を始めた。」
竹内翁が名古屋に腰を下ろして、鞄業の基礎を築いたのは二十五年に亙った。名人気質で凝り固まった竹内翁は、名古屋の地に産業としての鞄を植え付けることに専念、鞄の製作を修行しようとして門をた> たく若い人々を喜んで迎え、鞄工の技術を教えた。十年ほど後の明治二十年、そのころ七~八人のメーカーが出来た。いずれも竹内翁の元で技を修めた人々である。またその頃に鞄業や鞄材料商の人達も商> 売を始めている。
一方、その頃東京や大阪で組合活動が活発に行われるようになり、名古屋でも「鞄盛会」という団体が旗揚げする。このときのメンバーは二十二名を数えたと記録にあるが、これがこの業界の団体としての 初めてのまとまった会であったのである。

残念ながら『愛知鞄九十年史』も未だ見る機会に至っていません。ただ『日本鞄業総覧』にも、名古屋の鞄産業の始まりについても記述があり、その中に竹内氏にまつわる面白い話が一つ載っていました。

(竹内翁が)名古屋に居を構えたのが明治十年、そして東京で手がけた鞄の製造をはじめた。 当時皮革関係の営業には鑑札が必要だったので、試作品を持参して愛知県庁に鑑札を受けに行った。
ところがカバンを見たことのないお役人は、翁が持参の試作品を見て有頂天になった。
鑑札を出すにもカバンの名称のなかった時代で、ただワイワイと騒ぐばかりだった。そこへ知事閣下が通りかかった。
当時勝俣という人だったそうだが、その勝俣知事が珍らしい革製品を見て「この品はその形体から見て鞄が適当している」 と、早速命名された上、製作者の翁を大いに激励されたといわれている。
この頃、鞄の字は無かったが、その製品を「カバン」と一部ではいわれており、翁が知事から「世上何と呼ぶか」 と問われた際に「カバン」と呼ばれている旨をいったのがきっかけで、それでは「鞄」とい う字を用ゆるのが適当であろうと、鞄製作としての鑑札を受けたもののようである。
これは単なる言伝えで確かなものではないが、とにかく「鞄」の字源は名古屋で生れたというべきである。

『日本鞄業総覧』(総括篇P66)

この話、明治天皇がお尋ねになったという谷澤氏の鞄の話によく似ています。真偽のほどはともかく、『日本鞄業総覧』が出版された昭和二十九年当時にこのような言い伝えが名古屋にあったというのは面白い事実であり、竹内氏が名古屋の鞄産業に尽力されたことは間違いない事実のようです。

もう一つ気になることがあります。谷澤氏は、1878年(明治11年)の愛知県博覧会で大阪の森田直七が名古屋の同業者竹内伊右衛門氏の名義で鞄を出品したと語っていました。

竹内常次郎氏が名古屋に居を構えたのが1877年(明治10年)ですが、その時期に名古屋に居て鞄のことをわかっている人物で竹内というと、そう多くはいないと思います。竹内伊右衛門氏と竹内常次郎氏とは何か関係があったのでしょうか。二人の竹内氏は大阪の鞄業界と東京の鞄業界をつなぐ大切な糸であり、より詳しく研究される必要があると思われます。

そう考えるとやはり、愛知県博覧会の出品目録を確認してみたいところです。そして『愛知鞄九十年史』には、もしかすると私の知らない事実がまだまだ書かれているのかもしれません。こちらも確認してみたいところです。

統計資料としての「カバン」

ここまで博覧会や店舗案内等での「カバン」を見てきました。今度は視点を変えて、明治政府の統計資料などからカバンはどこかでさかのぼれるのか、ちょっと見てみましょう。まず注目したのが、1874年(明治7年)の『府県物産表』という資料です。この資料は、明治政府となった後の本格的な全国的な統計データとして1875年(明治8年)12月に勧業寮という部署がまとめた大変貴重な統計資料です。現在は『明治初期生産統計集成』という本にまとめられ、図書館などで閲覧することができます。

この統計資料、貴重な情報ではありますが、大きな欠点があります。まだ統計的手法や物品の分類方法が整備されていないこともあり、各都道府県で集計単位がバラバラなのです。どのような商品分類でどの程度細かく集計するのかは、どうも中央で指示していなかったようで、当時集計した地方役人のセンスに一任されていたようなのです。そのためたとえば京都などでは着物類が恐ろしく細かく分類されていますし、漁業が盛んな地域では、数多くの魚の名前が挙がっています。

鞄関係のアバウトさも同様で、東京府には「革文庫」「革胴ラン」「革手提蝦蟇口」(P9)の記述が見える一方、播磨縣の欄には「紙文庫」、大阪は「カバン金物」(P59)「革カバン」「ドウラン」(P68)といった文字が見えます。大阪は「革カパン」と「ドウラン」を区別しているので、この二つは異なるものとして認識していた可能性があります。しかも、「カバン」ではなく「革カバン」とわざわざ断っています。

東京府 武蔵野國
革文庫          2776品   6261圓25銭
革手提蝦蟇口      28295品   7694圓
革胴ラン         4285品   2807圓33銭4厘  (P9)

蝦蟇口=がまぐち

  • 革文庫は2円25銭。
  • 革胴ランは1個当たり66銭

京都府 山城國 丹波國
銅胴乱金物         500本    40圓       (P28)

大坂府 摂津國
カバン金物        4140※   406圓25銭
革カパン         4540個  3776圓12銭5厘
ドウラン          830個    26圓56銭

※カバン金物の単位は、判読できませんでした。

  • 革カパンは1個あたり83銭
  • ドウランは1個あたり3銭。東京の革胴ラン66銭と比較して差が大きすぎるので同じ言葉でも指しているものが違う可能性がありそうです。

飾磨縣 播磨國
革文庫          113個    167圓50銭

出典:『明治初期生産統計集成第二巻』

  • 革文庫は1円48銭。

一個あたりの平均単価を計算してみると、大坂の革カパンは83銭、ドウランは3銭です。また同じ胴乱でも、東京府の革胴ランは1個当たり66銭です。値段から見る限り、大坂の革カパンと東京の革胴ランは同じようなもので、大坂のドウランが何か別物である可能性を感じます。また山城の銅胴乱金物の単価は8銭、大坂のカバン金物は9銭8厘で、大体同じくらいです。

さて、この統計資料からなにを汲み取ればよいのでしょうか。「カバン」という言葉は大阪に見られ、東京には見られないということでしょうか。カバンは革では無いものが標準で、革製は特別に革カバンと呼んでいた可能性についてでしょうか。どのような推理をするにしても、統計資料の一つや二つの事例で決めつけるのは危険でしょう。

それでも、想像を豊かにしていろいろと仮説を立てるぐらいは、許されるのではないでしょうか。もしかすると「カバン」という言葉は関西発祥で、後になって関東に持ち込まれという推理も楽しいでしょうし、関東でも職人の間では既に「カバン」と用いていたものの、東京の役人は意味の通りやすさから「カバン」ではなく、「革胴ラン」「革手提」といった言葉に翻訳したと考えても面白いでしょう。

加えて残念なことは、1873年(明治6年)にも『府県物産表』を作成しているのですが、これはこともあろうにいくつかの県の役人が資料を提出しておらず、一番知りたい東京のデータが無いことです。また現在の兵庫、大阪、愛知等に相当するいくつかの地域について縦覧してみましたが、「革文庫」「張皮籠」「骨柳各種」といった言葉はあるものの、直接鞄に関係しそうな記述は見つかりませんでした。

1886年(明治19年) 政治小説「雪中梅」

日本国語大辞典には、初期のカバンの記載例として、末広鉄腸(末広重恭)著の政治小説「雪中梅」の下巻第一章を挙げています。

*雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下・一「人足一人(いちにん)を雇ひ、之れに革手提(カバン)と毛布(けっと)包みを担はせて案内者となし」

下記に見るように、初版において革手提にカハンというルビが振ってあります。
政治小説「雪中梅 初版 P12」

1896年(明治29年)の雪中梅 10版においても、革手提に平仮名で「かばん」とルビが振ってあります。
政治小説「雪中梅 10版 P71」

「カバン」の言葉の起源をめぐる謎と周辺領域

ここまで、「カバン」という言葉の始まり、漢字の「鞄」の始まりについていろいろ調べてきました。しかし「カバン」という言葉をめぐる大きな課題が依然三つあります。

相変わらずカバンという言葉の起源がわからないこと。一体何語なのか、誰がどこから持ち込んだのかは謎のままです。特に中国語由来説に関する検証が必要でしょう。そしてもう一つ、誰がカバンという言葉に「革盤」や「革包」という皮革にまつわる文字をあてたのか分かりません。そして、『言海』の編者大槻氏は、いったい何を見て「鞄」という文字を「カバン」の項目に採録しようと考えたのでしょうか。世間に流布し、既に使われている言葉を説明するのが辞書です。ところが「鞄」においては、この辞書以前に「鞄」の例が書物や文書に無いのです。壱店舗の店頭の文字を見て辞書に載せようと思うものでしょうか。江戸時代より店舗の看板には「判じ物」という謎解きのようなものが数多くあったといいます。「鞄」もまた江戸気質にもとづいた一種の判じ物とも言えます。したがって大槻氏が漢字の「鞄」を採録したということには、少々違和感が残るところです。

加えて今回の一連の調査を振り返ってみると、初期の「カバン」という言葉が竹細工や姫革文庫に関係する領域から出てきていることから、「カバン」の言葉の起源を調査するには、現在の鞄産業だけではなく、周辺領域、特に竹や籐等の細工職人や産業に関わる歴史に踏み込む必要があるように感じます。

また明治20年代の「カバン」の急速な普及を考察するには、さらにいくつかの大きな流れを追いかける必要があります。まず大日本帝国憲法の発布から地方自治制度や地方公務員制度の確立に至る流れとの関係を考察する必要があります。地方議員はいつ頃から洋服で議会に通い始めたのでしょう。その時カバンはどう扱われていたのでしょう。次に、鉄道や船をはじめとする交通網の普及との関係を追いかけなければいけません。一人で遠くに出かける手段を得た人は、モノを自分で持ち運ぶときに何を使ったのでしょう。そして最後に軍隊との関係を避けるわけにはいきません。軍隊関連の資料には早い時期からランドセルや背嚢という言葉が出てきますが、高級軍人はどこかで私物として鞄を作ったはずです。それはいつ頃なのでしょうか。

政府、鉄道、軍隊と鞄とのかかわりについて情報や知見をお持ちの方は是非お知らせください。

まとめ

明治以前から、現在でいう鞄のようなものは日本に存在していました。たとえばポシェットのようなものは胴(どう)乱(らん)などと呼ばれていました。しかし「カバン」という言葉は明治六年のウィーン万博まで文献に記録されませんでした。しかもこのときの「カバン」は竹籠のようなものであり、現代のカバンの概念とはやや異なりました。翌1874年(明治7年)には「革カバン」という表記が現れます。1887年(明治10年)頃からは徐々に「革包」という表現が増えてゆきますが、最初は小箱も家具も革で包めば文字通り「革包」と表現しており、「革包」に「カバン」という読みを当てたことがはじめてわかるのは1881年(明治14年)です。

一方、銀座の老舗鞄店タニザワの創業者である谷澤禎三氏が、1878年(明治11年)に東京府勧工場ではじめてカバンに「鞄」の文字を当てて販売したと本人が証言した記録が残っています。しかしこの時は「鞄」という当て字は世間に広がりませんでした。同時期、革盤という表現も確認できます。やがて1889年(明治22年)の『言海』出版(カバンに鞄の文字を当てた最初)、1890年(明治23年)の第三回勧業博覧会と谷澤鞄店の銀座開店(「鞄商廛」の看板)等を経て、「鞄」の文字は急速に政府資料等に普及してゆき「革包」は少数派となってゆきました。

謝辞

筆者はjapanbag.comを1997年より主宰・運営していますが、サイトの機能の一つとして掲示板機能を用意していました。2006年、その掲示板にEXTRA BAGさんという方がコメントを書き込まれました。

内容から推察するに本職で歴史を研究されている方と思われる深い考察内容でした。同氏は、明治第三回内国勧業博覧会で第一部第八類の審査官の主任が西村勝三という人物で、明治の初めに伊勢勝造靴工場・製革工場を設立して軍靴を製造した人物であること。そしてこの人物の兄が西村茂樹といい、大槻氏の文部省時代の上司で辞書の編纂を指示した人にあたることを指摘されています。

西村勝三氏と大槻氏の関係についても研究すれば何か真実が出てくる余地があるように思います。

その外、本項の執筆にあたっては、多くの鞄職人様、鞄メーカーの方、レザークラフトショップの方、その他多くの方々のご支援をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。 (完)


  • 公開日 2021-02-01
  • 最終更新日 2021-02-09
  • 投稿者 太田垣