カバンは何語なのか

明治期に普及した言葉の中には、ズボンとかカバンとか、由来がはっきりしないものがいくつかあります。このページでは、従来言われているカバン=オランダ語kabas起源説や、中国語夾板起源説について考察し、フランス語である可能性を考えてみたいと思います。

カバン=オランダ語kabas起源説、中国語夾板起源説ついて

漢字の鞄の起源とは別に、カバンという言葉の起源として、オランダ語のkabasを唱える説があります。
また、広辞苑等には、中国語の「夾板」「挟板」「夾櫃」から来たのではないかという説も記載されています。
これらについて裏付ける史料が見つからないというのが実情です。ほんとうに言い切ってしまっていいのでしょうか。

カバン=kabas起源説は裏付けが取れない

一般社団法人日本かばん協会のWebサイトには2021年2月現在、オランダ語kabas起源説が記載されています。

草創期─“鞄”の語源は、オランダ語の“カバス”から
日本で初めて鞄が作られたのは、明治初期。外国人が修理に持ち込んだものを真似たのが始まりで、 オランダ語のカバスを語源とする鞄という言葉もそのころから使われ始めたと言われています。 しかし、その呼び名はなくても、日本における鞄の歴史は、それよりずっと以前から始まって いました。武士たちが鎧を入れた「鎧櫃(よろいびつ)」、医者の「薬篭(やくろう)」、床屋の 道具入れ としての「台箱(だいばこ)」、そして庶民が旅行の時に使った柳ごおりなども、 すべて鞄の役割を 果たしていました。

またWikipediaの「オランダ語から日本語への借用」というページには、カバンはkabasからの借用語となっています。

しかし、文献上裏付けに乏しい状態です。

まず、オランダとのやりとりで広がったとすれば、1600年代から江戸期を通じ、長崎出島から徐々に江戸および全国に広がっているべきですが、そのような記述が見当たりません。明治期に入ってはじめてカバンという言葉が使われ始めます。

Yahoo!知恵袋にそれに関した話題が載っていたので、少し引用します。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q139755633

Mijanponaさん
2006/10/24 20:39(編集あり)

諸説あります。以前調べたことがあります。

とりあえず、は参考URLも参考に。「鞄」という漢字(もとは「なめし革職人」という意味) が「かばん」の意味になった過程をくわしく検証しています。

広辞苑などの「(中国語「夾板(キヤバン)」(櫃ひつの意)、または「夾_(キヤマン)」 (「文挟み」の意)の転」というのは信用できません。検証できないんです。思いつき説の一 つだというしかありません。

「鞄」を分離した「革包」(中国語 gebao カーバオ」)が音が近いですが、中国最大 の漢語辞典である漢語大詞典によると、中国語の「革包」の使用例が20世紀初とあり 日本語の「かばん」より新しく、結局、「革包」のほうが日本語「かばん」の借用語か音訳のようです。

幕末明治初期には「かばん」の漢字表記に「革手提」「革袋」「革包」「革盤」など定まって いない点から見て、音「かばん」が先で、漢字は後からだと考えられます。 とするとオランダ語説(スペイン語説はでたらめ)があります。イ ンターネット上にも、かばん=オランダ語kabas説はあります。

ところが、すぐ見られる講談社のオランダ語辞典を見ても、kabas なんて単語はないんです。 シャンプーがオランダ語だとか、チャンポンがオランダ語だとか、まったくでたらめな説が インターネット上にはよくあるので、これも疑ったんですが、図書館に行って、大きな オランダ語-オランダ語の大辞典を調べると kabas がありました。 現代語では用いない古い単語で「旅行カバン」、今でいう「スーツケース」の意味です。 この古い単語であるところが、幕末の日本らしくあります。

なるほど大きな辞典に載っている、今ではすでに廃れてしまった古いオランダ語にKabasという言葉があるとのこと。

この説の良いところは、あらかじめ音がはっきりしているにもかかわらず、当てるべき漢字がないから明治初期の文献には様々な鞄を示す表記があった事実を説明しやすいことです。

一方、オランダ語説の怪しいところは、それではどうやってこの言葉が日本に上陸したのか、ということです。
幕末あたりからは既に大量の英米情報が日本に流入しており、その時期にオランダ語があらためて流入し広がったのか、ということです。

多くのオランダ語は江戸期の鎖国政策の中で出島を中心に発信され、それが江戸の知識階級経由で大衆に広がったり、長崎から陸体伝いに徐々に広がったと考えるべきなのですが、江戸期を通じてカバンが緩やかにひろがったことを裏付ける情報を持ち合わせていません。

カバン=夾板起源説も裏付けが取れない

もうひとつカバンという言葉の起源として、広辞苑等には、中国語の「夾板」「挟板」「夾櫃」から来たという説があります。

この説で説明しやすいところは、「夾板」の発音が広東語で「カッパーン」と発音するところから、カバンという言葉の発祥を説明しやすいところです。明治初期の博覧会の記録など古い資料ではカパンという表記も確認でき、あるいは地方での方言でカパンと呼んでいた地域もあることから、「カッパーン」が由来になっている可能性はないとは言えません。

逆に、この説の怪しいところは、以下の4点です。

  • 何故そのまま夾板という単語が日本に輸入されなかったのか
  • 現代の中国語では夾板は鞄の意味では使わず、文字通り何かをサンドイッチのように板ではさむモノであること
  • 日本の文献には一切夾板という表記が現れないこと
  • 西欧文化が次々と入ってくる中で、なぜオランダ語や英語ではないのか

つまり、漢字が当てられる言葉であれば、今よりも漢文に長じた知識人が多かった時代なので、カバンに対応する漢字が記録されていないということは考えにくく、流入した背景や経路の説明がしにくいのです。

想像を豊かにするならば、学者や軍人の間での言葉の伝搬ではなく、中国人のブルーカラーと日本人労働者が一緒になるようなシチュエーション(たとえば港湾の荷捌き場等はどうだろうか)で発音だけが伝わったということも考えられそうです。実際、横浜においては洋館等の建築技術や印刷、洋服に関する縫製に至るまで、西洋人の文化の周辺には必ず華僑が存在していたようです。しかし、あくまで想像にすぎません。

カバン=フランス語起源説

最近(2024年)になって、カバン=フランス語起源説というものがあっても良いのではないかと思うようになってきました。ポイントは5つです。

  • フランス語にcabasというバスケットやショッピングバッグを意味する言葉がある。
  • 日本の警察は、フランスの制度を手本に作られており、装備品にフランス語の影響がみられる。
  • 明治14年頃までの文献には、カパンという表記も多くみられ音から転記したようにみられる。
  • 明治14年頃までの文献では、カバン/カパンは、竹細工や籐細工の職人が制作したものを指していた。
  • カパン/カバンが皮革製品を指す決定的な転機となったのは、明治17年に制定された商標条例である。

cabasの発音は、割とカバンに似ているのでは

カバンに似た語として、上ではオランダ語のKabasが取り上げましたが、むしろフランス語のcabasであれば今でも生きています。

・cabas(キャバと発音する ここから発音が聞ける)というフランス語の単語がバスケット状のものや買い物かごを指すこと

フランスの老舗辞書ラルース(larousse)のオンライン辞書によれば以下のように書かれています。

cabas nom masculin (anç. provençal cabas, du bas latin capacium, peut-être de capax, qui contient)

  1. Grand sac de vannerie ou de tissu utilisé le plus souvent pour faire le marché. Synonyme : sac à provisions
  2. Panier en jonc tressé, de forme allongée, qui sert à mettre les fruits secs, comme les figues, les raisins.
    Synonymes : banne - couffin
    出典 dictionnaire de Français

ネットの力を借りて訳してみると以下の通り。

cabas (由来: プロバンス語のcabas、後期ラテン語のcapacium に由来し、おそらくcapaxに由来)

  1. 買い物によく使われる大きなかごバッグまたは布製バッグ。類義語:sac à provisions
  2. イチジクやブドウなどのドライフルーツを入れるための、い草を編んだ細長いかご。類義語:banne - couffin

banneは、ガリア語由来の籐のバスケットを指す古語のようで、転じて今では、オーニング(お店の前に掛ける布製のひさし)のことを指すようです。
couffinは、ラテン語のcophinusに由来するハンドル付きの大きな柔らかい籐のバスケットを指すようです。

1871年(明治4年)の官許仏和辞典 には、cabasの訳語として「籠」が掲載されていました。

警察制度の輸入と共に入ってきた可能性

実は、明治期、サンチョロという言葉がありました。これは、警察官が腰から下げるサーベルを吊るすための腰ベルトで、恐らくはフランス語のceinture、つまりベルトが起源になっている言葉のようです。

そもそも警察制度を取り入れたとき、「ポリス」という言葉まで輸入して使おうとしていたくらいなので、江戸の日本に存在しない警察官の身の回りの品々をフランス語で呼ぼうとしていてもおかしくはありません。

警察官の制服が最初に制定されたのは明治4年、東京府で「府下邏卒三千人設置附諸規則服制」という通達が出ています。(明治4年の時点では、国家制度としては警察官は「邏卒」(らそつ)と呼んでいました)

このなかで「サンチョロ」に該当するものは、革胴シメと書かれています。おそらく、公文書では革胴シメとか、腰帯と呼んでいて、現場では「サンチョロ」と呼んでいたのでしょう。

たとえば千葉県警察史によると、 明治10年12月に、内務省からの指令を受けて、警察官の服装の取り決めを行い、その中で必ず「サンチヨロン」を着用する事が書かれています。

あるいは明治16年に宮城県警察本署が出版した警吏便用 には巡査給与規則のなかのひとつとして以下のように書かれています。

一 帽章 棒 呼子笛 捕縄 帯剣 サンチョロ ハ満三ヶ年間ニ各一個但満期后交換
出典: 警吏便用

巡査給与と書いてありますが、いわゆる給料のことではなく、支給品ということのようです。

1888年(明治21年) 工学会誌 の記事にも、「大坂製革所」に関する記載があり、カバンの他にサンチョローを製造しているとあります。

1970年代に書かれた、新井佐次郎の「鉄砲弥重」という短編の中にも、サンチョロが出てきます。 この小説の舞台は秩父暴動・秩父事件といわれる明治17年の農民蜂起事件です。

そのとき警部のかくしを探ねていたのは、柿崎丑五郎の 弟とか申す者で、その者は絵図面と紙幣をとり、 自分はサーベルと、サーベルを吊すサンチョロとかいう革の帯をとりました。 そのサーベルは石間村から下吉田へ出口の、桑原の畦の草ぼこへ、 サンチョロと一緒にうっちゃりました。
出典:新日本文学 33(11)(375)

いずれも、明治時代の警察の装備の中に、「サンチョロ」という言葉が残っているところに注目したいところです。
つまり、カバンも同様、警察制度の導入時に入ってきたのではないか、ということです。
ただ、サンチョロとは違い、警察制度を導入する中でcabasを使うことはなかったので、その点は説明に困るところです。

明治14年頃までは、「カパン」の表記も割合多くみられる

おもしろいことに、漢字が当てられる前の「カバン」にはわりと多くの「カパン」表記がみられます。 これから推察するに、耳で聞いた外国の発音を元に言葉が固まっていったのではないかと思われます。

初期のカバン・カパンは竹や籐で作られたものだった

最初の頃の各種博覧会の出典目録を見ると、竹や籐細工の産地からカバンとしての出品がみられます。革製品としてのカバンを出品しているところは、胴乱も出品しています。また、初期の頃は、革製の場合は「革カバン」とわざわざ革製であることを記載していることが多く見られます。

このことから、初期のカバンは、フランスのcabasに近いものだったように思われます。

明治12年の京都博覧会あたりでは籠系と革系両者が拮抗している感じです。

明治17年の商標法制定時にカバンは革製品と定まった

商標条例が明治17年に布達されます。 カバンと革が概念的につながったのは、これではないかと思われる。

商標を登録する際、そのブランド名がどの範囲に及ぶのかを細かく分類をして登録する必要があります。つまりその時に事物の概念がある程度固定されるのです。

明治17年の最初の布達のときに、カバンが「革包」と記載され、皮革其製品、馬具、文匣、革帯、靴などと同じ部類に入れられています。 参照:[明治17年 現行類聚日本商法規則 (16コマ)](https://dl.ndl.go.jp/pid/792945/1/16

つまり、カバンは革製品なんだ、という認識がここで"公的"固定されてしまったわけです。

まとめ

上記考察を踏まえ、以下のような仮説を立てることが出来るのではないかと思います。

カバンという言葉は、サンチョロ(ceinture)等と同様に、警察制度の普及と共に地方でも知られるようになった。当初は籐や竹で作られたバスケット状のものだったが、やがて革製のものも作られるようになっていった。
表記も、当初はカタカナでの表記が中心で、カバンのほかにカパンという表記も使われていた。
日本では、竹細工・籐細工の産業の他、胴乱や提嚢といった言葉やそれを製造する産業もあり、それらが革製のカバンを作るようになると、カバンという概念が革と結びつくようになる。
明治17年の商標の条例が布達されるにあたり、カバンは革製品に分類され、革包という表記が成立します。ここから3年を経て、言海において「鞄」という文字が当てられるようになる。


  • 公開日 2013-12-09
  • 最終更新日 2024-08-02
  • 投稿者 太田垣