本ページは連載『カバンの語源と「鞄」という漢字の由来』の第8章(最終章)です。
博覧会・店舗リスト・組合史に続き、統計資料・雑誌・小説といった傍証資料の中の「カバン」を拾い集め、最後に、この調査を経てもなお残されている謎を整理します。

「カバン」の言葉の起源をめぐる謎と周辺領域

ここまで、「カバン」という言葉の始まり、漢字の「鞄」の始まりについていろいろ調べてきました。しかし「カバン」という言葉をめぐる大きな課題が依然三つあります。

1、フランス語起源だという絶対的な証拠がない 「カバン」がフランス語起源ではないかと思われることは論じてきましたが、それでもフランス語起源だという絶対的な証拠はありません。誰がどこから持ち込んだのかは謎のままです。 特に中国語由来説に関する検証が必要でしょう。

2、なぜカバンという言葉に「革盤」や「革包」という皮革にまつわる文字をあてたのか 誰がカバンという言葉に「革盤」や「革包」という皮革にまつわる文字をあてたのか分かりません。

3、『言海』の編者大槻氏は、いったい何を見て「鞄」という文字を「カバン」の項目に採録しようと考えたのか 『言海』の編者大槻氏は、いったい何を見て「鞄」という文字を「カバン」の項目に採録しようと考えたのでしょうか。世間に流布し、既に使われている言葉を説明するのが辞書です。ところが「鞄」においては、この辞書以前に「鞄」の例が書物や文書に無いのです。すでに商標登録のための公的な文書に「革包」という表記が出ているのにも関わらず、銀座の商店の店頭の文字を見て辞書に載せようと思うものでしょうか。

連載はここまでです。全体の結論と年表は『カバンの語源と「鞄」という漢字の由来【総まとめ】』にまとめています。

その他色々

1874年(明治07年) 折山藤助,洋式鞄を製造 の情報源はどこから?

特許庁のWebサイトに掲載されている意匠制度120年のあゆみの『第3部 意匠制度 120 年史年表』の中に、1874年(明治7年) 折山藤助、洋式鞄を製造という記述があります。

https://www.jpo.go.jp/system/design/gaiyo/seidogaiyo/document/isyou_seido_ayumi/3bu.pdf

折山藤助が1880年(明治13年)に宮城県博覧会で褒状を受けた記録はありますが、明治7年の記録は、今まで参照してきた記事に、この情報は見当たらなかったので、情報の出所が知りたいところです。

1880年(明治13年) 頃の雑誌に登場するカバン

明治10年代になると、川柳・狂句・狂歌などを掲載した雑誌の中にいくつか「カバン」が出てきます。たとえば、1880年(明治13年)8月発行の眠佐満志(ねむりさまし)第6編 という川柳?を集めた雑誌に「片手にカバン 結社仕と(?)げて銀行出る」という句が載っています。 このころの結社とは会社や組合組織の事でしょうから、インテリぶった人がカバンを掲げて銀行で融資か何かの手続きをして仕事をしたつもりになっているよ、くらいの意味でしょうか。

また、1882年(明治15年)の交詢雑誌 (102) には、朝鮮京城事変の経歴という記事があり、この中にカバンという記載が見えます。

小林聲ニ應シテ歸リ来リ短銃二發賊初メテ遠ク遁ケタリ
余小林ニ云フ子来ラサレハ余今討死スベキ覺悟ナリト小林數々急クべシト云フ
余足痛メリ急歩スル能ハス先キニ行クベシ然レモ小林ハ余ヲ捨テ行カス始終余ヲ護シ呉レタリ
時遥カニ公使ノ馬ニ乗リ去ルヲ見テ余カ仁川ヨリ發セシ書狀ノ杉村等ニ達セシヲ知ル
大庭横山等モ亦余ヲ待テ共ニ引去レリ
路ニ大ナル革カバン二箇ト赤ケット一枚トヲ捨テアリ
余小林ニ云フ是ハ松岡等ノカバンナルヘシ開キ見ヨ
御用書類アレハ取歸ヘラザルヲ得スト
小林云フ錠掛リ居レリ余云錠ヲ切ルベシト
小林錠ヲ切リ中ヲ見ルニ書類ナシ唯二枚ノ白地浴衣アリ…
(以下略)
交詢雑誌 (102) 9コマ

いわゆる壬午軍乱(1882年、漢城での日本公使館襲撃)に関する記事の一部でしょう。

同じく明治15年の東京輿論新誌 (72) にも、丸山茗圃という人の不景気の花というエッセイ(というか景気に関する論説)でカバンが出てきます。

○不景気の花   丸山茗圃 数百の球灯高く挂り店頭に何々社物品販売所と大書し屋内数百種の物品を陳列するものは当時流行の勧工場なり
二八の小女数十名左手に一箇の「カバン」を携へ右手に蝙蝠傘を持ち街路を怒鳴り乍ら薬を売り歩くものは大日圓の売子なり
袴を着し鐘を鳴らして歩く飴屋あれば白装束にて鉿を鳴し大山参りの如き出て立ちの新聞売子あり
(以下略)

勧工場では大日円という薬の売り子が袴を着て右手に傘、左手にカバンを持って売り歩いている、と書いています。

1884年(明治17年) 憲兵職務提要

憲兵職務提要 (閲覧には国会図書館へのログインが必要)は、フランスのベルナードという人の著書の訳本で、憲兵の職務に関するあれこれが書いてあります。

この中に以下のような記述がある。(カッコ内はルビ)

住居ノ内部若クハ外部ヲ毀壊セル場合(刑法第三百九十六條)
本項ノ場合ニ於テハ其毀壊セル部分ノ形状ヲ明記シ且ツ若シ雨障(アメド)、風褵(ウチマド)、外戸(シマリド)、 仰板(テンゼウ)、牆壁(カベ)、厨櫃(タンス)、庋棚(トダナ)、錢櫃(カ子バコ)、革帒(カバン)、 布袱(フロシキツツミ)、鐵匣(カ子ノイレモノ)等ヲ破壊セル有レハ即チ亦精密ニ之ヲ載録ス

帒は袋と同義の文字ですが、「革袋」と書いてルビを打ち、カバンと読ませています。 もっとも、他の単語も難しい熟語に平易な意味のルビをあてているので「革袋」をカバンと読むかどうかはわかりませんが、 カバンという言葉で説明すれば意味が通じるというレベルだったのでしょう。

1891年(明治24年) 訓蒙開知 生徒の革提

前々章 で見た1889年(明治22年)の新潟(『北越商工便覧』)と、1890年(明治23年)の東京(『東京買物独案内』)の間には、どれほどの産業や情報の格差があったのかわかりませんが、ほんの一年の間でこの変化は小さくありません。何が原動力となってこのような急な変化が起こったのでしょうか。客観的資料からは真相はわかりませんが、「鞄」という文字の普及は、1890年(明治23年)の前半あたりに劇的に起こったことは疑いようがありません。

ただし、全部が全部すぐに「鞄」に置き換わったのかというとそうでもなく、たとえば1891年(明治24年)に東京で発行された『訓蒙開知 生徒の革提(かばん)』 という本では、革提という文字にカバンという読みがあてられています。

この本の表紙にはカラーで縦長で黒いショルダーバッグのような学鞄が描かれており、また扉絵には、表紙とは少しちがう横長のショルダーバッグも描かれています。

統計資料のなかの「カバン」

ここまで博覧会や店舗案内等での「カバン」を見てきました。今度は視点を変えて、明治政府の統計資料などからカバンはどこかでさかのぼれるのか、ちょっと見てみましょう。

まず注目したのが、1874年(明治7年)の『府県物産表』という資料です。この資料は、明治政府となった後の本格的な全国的な統計データとして1875年(明治8年)12月に勧業寮という部署がまとめた大変貴重な統計資料です。現在は『明治初期生産統計集成』という本にまとめられ、図書館などで閲覧することができます。

この統計資料、貴重な情報ではありますが、大きな欠点があります。まだ統計的手法や物品の分類方法が整備されていないこともあり、各都道府県で集計単位がバラバラなのです。どのような商品分類でどの程度細かく集計するのかは、どうも中央で指示していなかったようで、当時集計した地方役人のセンスに一任されていたようなのです。そのためたとえば京都などでは着物類が恐ろしく細かく分類されていますし、漁業が盛んな地域では、数多くの魚の名前が挙がっています。

カバン関係のアバウトさも同様で、東京府には「革文庫」「革胴ラン」「革手提蝦蟇口」(P9)の記述が見える一方、播磨縣の欄には「紙文庫」、大阪は「カバン金物」(P59)「革カバン」「ドウラン」(P68)といった文字が見えます。大阪は「革カパン」と「ドウラン」を区別しているので、この二つは異なるものとして認識していた可能性があります。しかも、「カバン」ではなく「革カバン」とわざわざ断っています。

東京府 武蔵野國
革文庫          2776品   6261圓25銭
革手提蝦蟇口      28295品   7694圓
革胴ラン         4285品   2807圓33銭4厘  (P9)

蝦蟇口=がまぐち

  • 革文庫は2円25銭。
  • 革胴ランは1個当たり66銭

京都府 山城國 丹波國
銅胴乱金物         500本    40圓       (P28)

大坂府 摂津國
カバン金物        4140※   406圓25銭
革カパン         4540個  3776圓12銭5厘
ドウラン          830個    26圓56銭

※カバン金物の単位は、判読できませんでした。

  • 革カパンは1個あたり83銭
  • ドウランは1個あたり3銭。東京の革胴ラン66銭と比較して差が大きすぎるので同じ言葉でも指しているものが違う可能性がありそうです。

飾磨縣 播磨國
革文庫          113個    167圓50銭

出典:『明治初期生産統計集成第二巻』

  • 革文庫は1円48銭。

一個あたりの平均単価を計算してみると、大坂の革カパンは83銭、ドウランは3銭です。また同じ胴乱でも、東京府の革胴ランは1個当たり66銭です。値段から見る限り、大坂の革カパンと東京の革胴ランは同じようなもので、大坂のドウランが何か別物である可能性を感じます。また山城の銅胴乱金物の単価は8銭、大坂のカバン金物は9銭8厘で、大体同じくらいです。

さて、この統計資料からなにを汲み取ればよいのでしょうか。「カバン」という言葉は大阪に見られ、東京には見られないということでしょうか。カバンは革では無いものが標準で、革製は特別に革カバンと呼んでいた可能性についてでしょうか。どのような推理をするにしても、統計資料の一つや二つの事例で決めつけるのは危険でしょう。

それでも、想像を豊かにしていろいろと仮説を立てるぐらいは、許されるのではないでしょうか。もしかすると「カバン」という言葉は関西発祥で、後になって関東に持ち込まれという推理も楽しいでしょうし、関東でも職人の間では既に「カバン」と用いていたものの、東京の役人は意味の通りやすさから「カバン」ではなく、「革胴ラン」「革手提」といった言葉に翻訳したと考えても面白いでしょう。

加えて残念なことは、1873年(明治6年)にも『府県物産表』を作成しているのですが、これはこともあろうにいくつかの県の役人が資料を提出しておらず、一番知りたい東京のデータが無いことです。また現在の兵庫、大阪、愛知等に相当するいくつかの地域について縦覧してみましたが、「革文庫」「張皮籠」「骨柳各種」といった言葉はあるものの、直接鞄に関係しそうな記述は見つかりませんでした。

1886年(明治19年) 政治小説「雪中梅」

日本国語大辞典には、初期のカバンの記載例として、末広鉄腸(末広重恭)著の政治小説「雪中梅」の下巻第一章を挙げています。

*雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下・一「人足一人(いちにん)を雇ひ、之れに革手提(カバン)と毛布(けっと)包みを担はせて案内者となし」

下記に見るように、初版において革手提にカハンというルビが振ってあります。
政治小説「雪中梅 初版 P12」

1896年(明治29年)の雪中梅 10版においても、革手提に平仮名で「かばん」とルビが振ってあります。
政治小説「雪中梅 10版 P71」

江戸時代より店舗の看板には「判じ物」という謎解きのようなものが数多くあったといいます。「鞄」もまた江戸気質にもとづいた一種の判じ物とも言えます。したがって大槻氏が漢字の「鞄」を採録したということには、少々違和感が残るところです。

周辺領域

今回の一連の調査を振り返ってみると、初期の「カバン」という言葉が竹細工や姫革文庫に関係する領域から出てきていることから、「カバン」の言葉の起源を調査するには、現在の鞄産業だけではなく、周辺領域、特に竹や籐等の細工職人や産業に関わる歴史に踏み込む必要があるように感じます。

また明治20年代の「カバン」の急速な普及を考察するには、さらにいくつかの大きな流れを追いかける必要があります。

まず大日本帝国憲法の発布から地方自治制度や地方公務員制度の確立に至る流れとの関係を考察する必要があります。地方議員はいつ頃から洋服で議会に通い始めたのでしょう。その時カバンはどう扱われていたのでしょう。

次に、鉄道や船をはじめとする交通網の普及との関係を追いかけなければいけません。一人で遠くに出かける手段を得た人は、モノを自分で持ち運ぶときに何を使ったのでしょう。

そして最後に軍隊との関係を避けるわけにはいきません。軍隊関連の資料には早い時期からランドセルや背嚢という言葉が出てきますが、高級軍人はどこかで私物として鞄を作ったはずです。それはいつ頃なのでしょうか。

政府、鉄道、軍隊と鞄とのかかわりについて情報や知見をお持ちの方は是非お知らせください。


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  • 公開日 2021-02-01
  • 最終更新日 2026-09-26
  • 投稿者 太田垣