本ページは連載『カバンの語源と「鞄」という漢字の由来』の第3章です。現在知りうる限り最も古い「カバン」の活字記録である、明治6年ウィーン万国博覧会の出品目録を見ていきます。

1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会への出展目的

ウィーン万博は、明治政府として正式に出展した最初の万博となります。

ウィーン万博には、名古屋城の金のしゃちほこや、正倉院の国宝級の宝物などが出展されました。日本政府としては、日本が優れた伝統技術を有し、豊富な産物や美術・手工芸技術があることの紹介による輸出促進や国際的な地位の確立を目指していました。そして、国内で産業博覧会を開催するためのノウハウを得るためにも重要なものでした。

したがって、来場者の反応を見て、出品物が輸出好適品かどうかを見極める重要なイベントでもありました。

1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会の出品目録

『明治期万国博覧会美術品出品目録』という資料には明治初期の様々な博覧会の出品目録が整理されています。明治六年(一八七三)ウィーン万国博覧会の出品リストの中に「カバン」というカタカナを確認することができます。これが、筆者が現在知りうる限りにおいて、「カバン」という言葉が活字になった最も古い表記です。

二百二十   カバン  竹網代・万筋 二ツ入子 六組
>兵庫縣  中村長次郎(元)拾三円五拾銭 壹ツニ付壹円拾貳銭五
>(売)壹ツ八フロ 壹六フロ
二百廿一   カバン  竹・千筋   四・内三ツ賣店 
兵庫縣  但石田持帰ノ口(売)壹ツ三フロ
二百廿二ノ一 カバン  竹・上千筋  貳       
兵庫縣  但石田持帰ノ口(元)壹円廿五拾銭(売)壹ツ六拾貳銭五厘 (売)四フロ
二百廿二ノ二 小カバン 竹      貳
       兵庫縣         (売)五拾カライツ
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P73)

目録ですから、通し番号が降られ、品目や数量、価格などが記されています。

この資料からは、兵庫県からカバンと言われるものを展示したことがわかります。ただしこの場合の「カバン」は、第8区という木工製品という分類で出品されており、繊細な網代の竹細工であるところから、いわゆる現代の「カバン」とは概念がいささか異なるように思われます。

また、ウィーン側の資料でも、Nakamura Ichodjiroと記されている出品物が確認できます。中村長次郎は大阪の商人で、多くの有馬竹細工を出品していたようです。 中村長次郎が出展した作品は、ウィン側の資料では以下のような訳語がつけられています。

  • Präsentirteller (ディスプレイ用のトレイ)
  • Nähzeugkästchen (裁縫箱)
  • Handkörbchen für Damen (女性向け手提げバスケット)
  • Confectkästchen (菓子箱)
  • Deckelkörbchen von verschiedenen Formen (様々な形の蓋付きバスケット )
  • Satz von rautenförmigen Kästchen (ひし形の箱のセット)

このバスケットとうのは、もしかすると、こちらで確認できる写真の左下に映っているバスケット状のもののことかもしれません。

ちなみにこの時期の兵庫県は、今と違い姫路近辺や豊岡近辺は含んでいませんでした。(兵庫県のWebサイト) したがって、この時期の兵庫県の竹細工というと、有馬あたりの竹細工工芸品だったのではないかと思われます。 実際、有馬の竹細工は、明治中期にわたって盛んに海外に輸出されていたようです。

8フローリンとはいくらぐらい?

さて、ここには販売価格が八フロだったと書いてあります。いくらくらい儲かったのでしょうか。

当時のオーストリア帝国の通貨単位は、百オーストリア・クロイツァが一フローリンという単位でした。

AIに聞いたところ、当時の小学校の教員の給料が30~50フローリン、一般労働者の日給が1フローリンということで、高級な革靴が8フローリン程度だったようです。我々の現代の感覚でいえば、10万円くらいのスマホを買うようなものだったのではないでしょうか。

一方、日本の通貨価値はというと、明治4年に江戸時代の通貨制度が終わり、円・銭・厘の新通貨制度が始まったばかりの頃でした。

仕入れ価格が「壹ツニ付壹円拾貳銭五」(1円25銭5厘)とあるので、で、当時の金銭感覚としては、お米3か月分、長屋暮らしの家族が2週間程度生活できる程度の価格、現代でいえば2~4万円程度だったようです。

この展覧会には「胴乱」の出品も確認できますが、こちらも材料は革ではなく藤弦か籐で編んだものが出品されています。

Welt Museum Wien のKHM Kunst Historisches Museumに、当時の写真が掲載されています。(第8区 Gruppe VIII がカバンが載っているかもしれない写真となります) https://repository.khm.at/viewer/japan/weltausstellung/1873/

四百五十一  胴亂 藤・花組真鍮 三  
東京 (元)花組貳拾貳円 一拾壱銭円ツツ  
           (雑)網代五円五拾銭  
(売)五拾フロ 三拾フロ 宮川分八拾フロ  
四百五十一 胴亂 藤・二段口小型  
       ・宮川製 (元)拾壹円  
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P85)  

こうしたことから、当時の「胴乱」「カバン」「提籃」等の区別は現在とは違うものだったか、そもそも境界が曖昧だたったか、あるいは地域差やを含んだものだったのではないかと考えます。
更にカバンとは関係ありませんが、この万博には「ランドセル」の出品もありましたので、メモ代わりに書いておきましょう。

五百廿八 ラントーセル  骨柳 壹   豊岡縣  
出典:『明治期万国博覧会美術品出品目録』(P89)  

ただし、骨柳(こつごおり)というのは柳行李のことなので、これも今のランドセルのイメージとは少々異なるようです。

ここで仮説として考えておきたいのは、カバンなりランドセルなり、こうした呼称はもしかすると輸出戦略を考えていた外来語に精通した役人が考えたのではないかということです。

この後、明治政府は国家事業として内国勧業博覧会を開催してゆきます。国内の博覧会記録の中で「カバン」の表記がどう変わってゆくのか、次の章で追いかけます。


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  • 公開日 2021-02-01
  • 最終更新日 2026-09-26
  • 投稿者 太田垣