本ページは連載『カバンの語源と「鞄」という漢字の由来』の第2章です。「鞄」という漢字を最初にカバンの意味で使ったと伝わる、銀座タニザワ初代・谷澤禎三氏のエピソードを、本人の回想録と関連資料から検証します。
「カバン」に「鞄」という文字をはじめて当てた人
このサイトにアクセスするような方であれば、銀座の老舗鞄店が「鞄」という漢字に「カバン」という読み仮名をあてたというエピソードくらいはご存知でしょう。銀座タニザワ)のホームページには、この原稿の更新時点(2026年7月)では以下のような沿革が書かれています。
1874年 (明治7年) 初代谷澤禎三、日本橋川上藤兵衛に師事し、タニザワの母体を築く。
1877年 (明治10年)
上野で第一回内国勧業博覧会が開かれました。 この時、谷澤禎三が出品したかばんが受賞、その賞状には「提嚢」としるされていました。 そこで谷澤禎三は関係者と協議のうえこれまで使われてきたかばんにたいする名称の一つであった革包「かくほう」の文字を、横に並べて、「鞄」をカバンと読ませる事を提案しました。1890年 (明治23年)
禎三が考案したといわれる「鞄(かばん)」の文字を看板に掲げたところ、これが銀座をお通りになった明治天皇のお目にとまり、侍従職を通し「何と読むか?」との御質問を受けました。 これをきっかけに「鞄」の字が全国に広まったと伝えられています。
また、銀座テーラーのホームページには、かつて「銀座テーラーがお勧めするメードイン銀座(Archive.orgから過去の記載を見ることができます。)」として銀座タニザワの谷澤信一社長のメッセージが掲載されていました。(現在は大幅にリニューアルされてメッセージは残っていません。)ここでの説明は、銀座タニザワのホームページよりもう少し詳しく書かれていました。
私ども銀座タニザワは、明治七年に誕生した鞄店の元祖でございます。
初代の谷澤禎三は、仕事を始めた当時から、新時代式の携帯嚢物を作り始めましたが、当時はまだ鞄と言わず、各品によって胴乱、革盤、手乱、サック等と称して、一定しておりませんでした。
明治十年の第一回内国勧業博覧会で受賞し、賞状をもらいましたが、それには提嚢とありました。その後、革包と書くようになり、禎三の提案で革包と縦に読んだ文字を横に一文字としまして鞄(かばん)と読ませたのが最初でありましたが、辞書(言海)に取り上げられたのは、十二年後でございました。
明治二十三年には、現在の地、銀座一丁目に進出いたしました。当時の書家として有名でした巌谷一六先生に「鞄商廛」とい文字の揮毫を願いまして、この大看板を店頭に掲げました。
この時代に、明治天皇が銀座をお通りになられた時に、この看板がお目に留まり、お付きの方に「なんと読むか」とご下門がありましたが、 誰一人読めるお付きの方はおられず、禎三は侍従職の方から呼び出され、ご説明申し上げた、というエピソードが言い伝えられております。
これが銀座タニザワの初代谷澤禎三氏が「鞄」という文字に「カバン」という読みをあてたという有名なエピソードです。
そして、今注目したいのは、「鞄」という文字と「カバン」という言葉の出会いです。
『東京鞄商工同業組合沿革史』の記述
ここに『東京鞄商工同業組合沿革史』という古い本があります。1930年(昭和5年)に出版されたもので、当時調べることができるあらゆる角度から、「カバン」の由来、語源、具体的な鞄の変遷等が説明されています。その調査は、最も広く深く詳しく包括的なもので、現在においてもおそらく最高水準のまとまった調査資料だと思われます。この本の内容の大半は、1956年(昭和31年)に刊行された『東京鞄業界沿革史』にほぼ引き継がれているので、調査したい方は、古本として比較的入手可能な東京鞄業界沿革史を見てみるのも良いかと思います。
これらの本の中では、東京近辺の鞄業界の重鎮たちが参加し、明治初期の業界黎明期の状況などを語っています。また谷澤氏もこの中で「五十五年の回想」という詳しい回顧録を残しています。
これは1928年(昭和3年)に語った内容を、1931年(昭和5年)発行の東京鞄商工同業組合沿革史に掲載したもののようですが、時代時代の流行を語っており、大変貴重な証言となっています。そして、漢字としての「鞄」の誕生についても谷澤氏自身においてここに語られているのです。
谷澤禎三氏の回想
谷澤禎三氏は、『東京鞄商工同業組合沿革史』の中で「五十五年の回想」として1874年(明治7年)当時を次のように述懐しています。
(ちなみに、「禎三」という名前の表記は、古い資料では「★三」となっており、また一部資料には、本来「貞三」が正しいが業界では慣例的に「禎三」を用いているという説明もあります。ここでは銀座タニザワのホームページに従って「禎三」の表記にしています。)
★=谷澤禎三の名前。示へんの旧字形。
川上商店に住み込みました時、臺灣征伐が始り、陸軍中將西郷從道侯が出征されるなど世間は大騒ぎでありました。
その頃の鞄は宛然米俵に手紐をつけたやうな丸型ばかりで、殊に芯とすべきボール紙がなかつた爲め、經木をはり合せて芯に使ひましたが、全く體裁も技術も幼稚なものでありました。その名稱も一定されず、革盤、胴亂、手らん、サツクなどゝ區々に呼んでゐました。又同業者も銀座三丁目に島新、南傳馬町二丁目に早川といふ店があつたゞけに過ぎませぬ。
出典:『東京鞄商工同業組合沿革史』 P419-420
川上商店とは銀座タニザワの沿革にある川上藤兵衛氏のお店のことで、谷澤氏はここに明治20年までの13年間奉公していたようです。この時期は、「革盤、胴亂、手らん、サツク」等と呼んでいたと書いてありますが、「革盤」という漢字をカバンと呼んでいたかどうかはここでは定かではありません。しかし、もし「かわばん」と呼んでいたならば、その旨書いていたでしょうから、ここでは「カバン」と呼んでいたと考えておきたいと思います。
この話に続けて『沿革史』では、初めて「鞄」の文字をあてることになるまでの経緯を谷澤氏が述べています。
明治十年三月に上野公園で第一囘内國勸業博覽會が開かれました時、其筋から鞄を出品するやう勸誘されましたが、未だ博覽會の趣意が判りませぬので、生返事をしてゐますと、再度の勸誘をうけまして、止むを得ず二種を出品しました。
然るに當局者もその名稱が不明だつたのでせうか、提嚢として賞狀を賜はつたことを記憶してゐます。
その博覽會の閉會後、残品處分の爲めに丸の内の龍(ママ)の口門前なる空屋敷の長屋(現在の海上ビルヂングの場所)を利用し、東京府主催で東京府勸工場を開かれましたが、毎日入場者が雑沓して好成績を舉げました。
この時、遂に今迄の革盤を革包と改め、又革包の二字を約して鞄とし、出品飾箱の上の看板に鞄といふ文字を掲げられました。――之がカバンとして鞄の字が使はれた濫觴であります。けれども、鞄の意味が普通に判つてゐませぬので、廣告や看板には片假名でカバンとかいた時代もあります。
出典:『東京鞄商工同業組合沿革史』 (P420-421)
これが東京鞄商工同業組合沿革史に記述されている「鞄(かばん)」という言葉が誕生した経緯です。組合の見解ですから、これが事実上の業界の見解と言えます。
ただここで少し引っかかるのは、「遂に今迄の革盤を革包と改め」という表現です。革包をカバンの意味で使ったと思われる例は、東京府勧工場より前に開催された第一回内国勧業博覧会の中にすでに見ることができるので、勧工場の事務所で谷澤氏自身がこれを機に「革盤」を「革包」に改めたとは考えにくいのです。
また、「事務所でも鞄の名稱に就て種々協議を重ね」とありますが、この事務所とはどこの事務所のことでしょうか。東京府勸工場の事務所のことなのでしょうか。東京府の職員が協議をしたというようも読めます。あるいはカバンを「革包」としたのは東京府の勧工場職員であり、「革包」を「鞄」として川上商店の陳列棚に掲げたのは、勧工場職員であったとも読めます。銀座タニザワのホームページに従えば、谷澤氏が関係者と議論して決めたようにも読めます。
ともあれここでは
- 勧工場で「鞄」という文字を掲げていたのは谷澤独立前の川上商店であること
- 「出品飾箱の上の看板に鞄といふ文字を掲げ」たという具体的な話が残っていること
- その発言について同業組合の人々は異論を唱えなかったということ
- 勧工場に「鞄」という文字を掲げていたにもかかわらずその後10年近く広まることがなかったということ
を押さえておきたいと思います。
大阪発祥説 森田直七と山城屋和助(要点)
『沿革史』には、日本における鞄づくりの起源としてもう一つの説が載っています。明治の豪商・山城屋和助がフランスから鞄を持ち帰り、これを配下の森田直七に見せて模倣して作らせたのが明治4年頃で、これが日本における鞄製作の始まりだという説です。ただし『沿革史』自身が、他の史実と矛盾が多く信用できないと結論付けています。
要点は以下の通りです。
- この説の出典は大正期に発行された稀覯本『森田大人と鞄』である。
- 山城屋和助は奇兵隊出身の軍御用達の豪商だが、陸軍の公金による投機に失敗して自殺した人物で、明治末には講談の演目にもなっており、彼にまつわる話には脚色が多い。
- 一方、森田直七氏が大阪の鞄産業の発達に大いに貢献したことは『日本鞄業総覧』の記録などから間違いない。
- 森田直七は1878年(明治11年)の名古屋の博覧会に、名古屋の同業者・竹内伊右衛門名義で鞄を出品し、その褒状には片仮名で「カバン」と書かれていたと『沿革史』(P350)に記されている。
なお、袋物史の世界でも、「日本に初めてがまぐちを持ち込んだのは山城屋和助で、明治5年にフランスから持ち帰ったのがきっかけで広まった」という説があります。(例:がまぐちの歴史の過去記述)
森田直七と山城屋和助、そして『森田大人と鞄』の詳しい内容と考証については、別ページ『森田大人と鞄』を参照してください。
ここまで見た通り、平凡社の『大百科事典』の典拠は間違いなく『東京鞄業界沿革史』または『東京鞄商工同業組合沿革史』によるものでしょう。
残念なのは「東京府勧工場に谷澤氏が出品した飾箱の上の看板に〈鞄〉の字が使われた」という事実、そして「これは革包の二字を合体したもの」という事実を実証するものが本人の述懐のみであることです。そして言葉というものは、世の中に広まり人口に膾炙してこそ意味があると思うのです。なんとかこれを裏付けるような客観的な資料は出てこないものでしょうか。たとえば勧工場に関する政府側の記録とかはどうでしょうか。あるいは、もっと早い時期の展覧会、博覧会についてはどうでしょうか?
東京府勧工場の話
さて、長々と博覧会における「カバン」を追いかけてきましたが、谷澤氏をめぐるもう一つのキーワードは勧工場(かんこうば)でした。時間を少し戻して、今度は勧工場を中心に流れを見てゆきましょう。
第一回内国勧業博覧会で出品したものを「残品処分」するために辰の口門前(現在の丸の内三丁目)でまとめて販売することになったのは、谷澤氏の回想のとおりです。
この政府主導による販売が「勧工場」と呼ばれるものの事始めで、今でいうところのショッピングモールです。
この勧工場は、(今では当たり前の販売形態ですが)一つの大きな建物の中に複数の店舗が入り、商品を陳列して正札で販売するという特徴を持っており、呉服屋が百貨店というビジネスモデルで巻き返してくる明治後期までは、時代の先端を走る小売り形態だったようです。それが証拠に明治の終わりころには東京都心近辺だけでも二十近くの私設勧工場が出来、地方都市にもこのビジネスモデルが普及してゆきます。
さて、この東京府勧工場は約十年に渡る官営事業の後、民営化するために、1887年(明治20年)3月に一旦上野公園に仮移転し、その後1888年(明治21年)に芝公園に移動しています。この頃には東京のみならず日本全国に民間の勧工場が広がりつつあり、政府主導で運営する意味が薄れたということもあるのでしょう。とにかく民間に払い下げられます。
ここで思い出すのは、『沿革史』にある「明治二十年に暇乞をして同年十一月に独立開店しました」という谷澤氏の述懐です。
当時の谷澤氏は、川上藤兵衛氏の元で長らく奉公している状態でした。(川上商店が東京府勧工場に出店していたのか、10年間にわたり出展し続けていたのかどうかは定かではありません) 鞄産業の隆盛に加え、勧工場の民営化の話が谷澤氏独立の契機になったというのは考えすぎでしょうか。
明治20年の暇乞から明治23年の銀座一丁目店舗移転までの谷澤氏の足取りについては、1954年(昭和29年)発行の『日本鞄業総覧』に以下の記載が参考になります。
(谷澤)翁はこの店で14年間修業した後、明治20年当時の京橋南伝馬町(現在の京橋二丁目風月堂あたり)に独立して鞄商を開業、現在地には明治33年移ったという
(商業篇P24)
明治33年が明治23年の誤植だと考えれば、つじつまが合います。
ここで思うのは、この谷澤氏の独立駆け出し時代に谷澤氏のお店を大槻文彦氏が訪問したのかどうか、そしてもし訪問していたならばそこで「鞄」あるいは「革包」という文字を見たのか見なかったのか、ということです。この時期まさに草稿版言海を元に私家版言海を執筆していた時期と重なるだけにこの謎は深いものがあります。
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- 公開日 2021-02-01
- 最終更新日 2026-09-26
- 投稿者 太田垣