1874年(明治07年) 陸軍中尉藤井高雅背嚢属品紛失ニ付謹慎
1874年(明治7年)11月30日の陸軍省宛の文書に「陸軍中尉藤井高雅背嚢属品紛失に付謹慎」という記事があります。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000853323
二個小隊を率いる陸軍中尉が、大隊を移動になる際に、自分の部隊の背嚢とそれに付属品に紛失や破損があったことがわかったのに、あれ?先に送っていたんじゃなかったっけ?とトボケて発覚を遅らせた疑いがあり、陸軍裁判所は謹慎20日に処する判決を下したという話。
十一月三十日 [六年]
陸軍中尉藤井高雅背嚢属品紛失の儀に付謹慎
陸軍省伺
陸軍中尉藤井高雅進退伺處分の儀別紙擬律案相添
此段相伺候也 十一月廿ニ日 外史主査
上請の通 十一月三十日
陸軍裁判所擬律
謹慎二十日 藤 井 高 雅
_犯管する處の物品検査に失し遺失するを不覚事 ←詼? カイ、たわむれ
務繁_の際と雖も不注意の責辭すへからす軍律正 ←劇?
條なし國典不覚被盗の條に照し笞四十其遺失する 笞=ムチ打ち
を覚るや速に上官に申告せさる可からす然るを等
閑歳月を延く亦國典事應奏不奏の條に依るに笞三
十二罪一の重きに従て諭し而して國典公罪の贖私
罪に半するの例に依り判決如右 十一月日欠
藤井高雅伺
高雅儀去る壬申十月中当第七大隊より名古屋第六
大隊へ編入致し候二小隊東京出発の節背嚢属品◯
て御給與の分其人員に応し可相渡は勿論の儀候處
元来同年八月下旬諸隊御改制の砌諸器機共其当日 砌=みぎり
一時に給養掛りへ引上け然る後混合致し候事にて
事冗雑の折柄器械品種数多にして何分明細取調行
届○候に付背嚢属品等の儀は麻袋の数を以て引揚
置其後取調中引続き当隊より前書二小隊第六大隊
へ編入の御沙汰有之に付不取敢右人員へ背嚢属品
相渡し候處右品物の内破損或は不足の品有之趣其
掛合有之實愕然篤と相考候へは右事由既に御届致
し候と心得違ひ實は失念不及其儀事に御座候依て
第六大隊へ背嚢属品の内闕乏の儀は前書云々の次 (闕乏=欠乏)
第故拙者より其向へ申出候筋も有之候間其隊にて
当隊より欠乏の儘入営致し候譚を以て尚又其向へ
可願出旨相答置候事に御座候前件一時繁雑の際と
は乍申取調行届○殊に其事由今日まて失念御届も
不致罷在候段粗漏の至り深く奉恐縮候依之進退奉
伺候也 九月四日
明治6年11月30日
陸軍中尉藤井高雅が背嚢等を紛失した件につき謹慎
陸軍省伺
陸軍中尉藤井高雅の進退伺いに関する処分は、別紙のとおり法律を適用することとなった。
11月12日 外史主査
本件、受け取りました 11月30日
陸軍裁判所法律適用
謹慎20日 藤井高雅
軽微な犯罪(?)を取り扱うする際の、物品検査時に物を無くしたことに気づかなかったことについて、
事務作業が多忙だったとしても、不注意の責任は逃れられない。
軍の規律に明確な条文が無いため、法律の不本意に盗まれた際の条項「不覚被盗の條」に照らし、第40条の紛失すると気付いたらすぐに上官に申告しなければならないところ、時間を要していた。
また法律の虚偽の申告に関する条項(事應奏不奏の條)に照らし、第32罪1の重さに従って諭し、法律の公罪の贖は私罪の半分になるとの例により、上記のような判決とした。 11月日付不明
藤井高雅伺
高雅氏は、去る明治5年10月中旬頃、第七大隊より名古屋第六大隊へ編入し、
二小隊が東京を出発する際、背嚢属品等は、支給された分、その人員に
応じ渡さないといけない事はもちろんわかっていました。
元来同年8月下旬に、諸隊の改制があり、様々な機材と一緒に
当日一時的に給養掛りへ引渡し、その後混在してしまいました。
雑務が多かったのと、機材の種類などが多く、ことこまかく調べることが行き届きませんでした。
背嚢属品等については、麻袋の数をチェックして持ち帰り、
その後中身をチェックしている最中に、引続き当隊より二小隊第六大隊への編入が決まりました。
これについてはすぐに関係者に背嚢属品を引き渡しました。
この品物の内、破損や不足の品がありましたので、そのことをしっかりと考えて相談すべきところ、
既に報告したものと考え違いをしていて、実際は、忘れていました。
第六大隊へ背嚢付属品の内、物品が不足している件については、このようなわけで、
私からそのことを、先方へ申し出て、物品が不足したまま、当隊からその隊に入営しました。
訳を話して、先方へ願出た旨を返答しました。
この件については、一時的に多忙だったとはいえ、調査が行き届かずまた現在まで失念しており、報告もできておりませんでした。
このような不手際について深く反省しておりますので私の進退について伺いたく申し上げます。 9月4日
- 公開日 2013-01-24
- 最終更新日 2013-01-24
- 投稿者 太田垣