1874年(明治07年) 曹長背嚢之儀別紙之通リ国司中佐ヨリ伺出候ノ件近衛局ヨリ本省ヘ伺
1874年(明治07年)04月22日の陸軍省の「公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋」という文書に「曹長背嚢之儀別紙之通リ国司中佐ヨリ伺出候ノ件近衛局ヨリ本省ヘ伺」という文書があります。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001695045
この時代、背嚢は「脊嚢」と書いていたり、同じ文書内でも「背嚢」と「脊嚢」が混在しているものがあるのですが、文中ではすべて背嚢にしています。
七年四月廿ニ日
近衛局より本省へ伺
曹長背嚢之儀別紙之通り國司中佐より伺出候に付
如何為致可然_何分之儀御指令被下度此段相伺候 ←哉?
也
別紙
歩兵聯隊附中隊附曹長工兵小隊付曹長帯剣可致
云々衆知致し候處背嚢は士官仝様之要具相用可
然哉何分至急御指令被下度此段相伺候也
指令 七年四月二十八日
伺之趣曹長は下士一般の背嚢可相用事
但士官背嚢を負擔する場合に於て曹長も負擔 擔=担
勿論に候得共平常練兵には負擔に不相及出征
行軍の節は_隊の運送車に付し輸送候儀と可 ←該?
相心得事 衆規渕鑑
文意は多分以下の様なものです。
「士官は帯剣すべしという指令があったので周知した所、
背嚢も士官同様の必需品だという話になりました。
どうしたらいいのか教えてほしい。急いでいます。」
というお伺いをしたところ、
「曹長は下士官の背嚢を使い、普通の練兵の際には他の兵と同じように自分で背負うこと、
ただし遠征などの場合は、運搬車に載せてもいいこととする」
との返事になった。
1874年4月24日 陸軍通達 東京鎮台背嚢用方ヲ候ス
1874年(明治07年)04月24日の陸軍省の「公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋」という文書に「東京鎮台背嚢用方ヲ候ス」という文書があります。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001695034
東京鎮台曹長背嚢用方を候す
中隊附曹長帯劍候に付銃器を携候儀廃止候背嚢の
儀は背負ひ可然哉の段別紙の通高嵜營所より申出
候に付何分御指令被下度此段相伺候也 七年四月廿四日
別紙
今般中隊附曹長帯剣可致従前銃器を携候儀は廃
止の趣御布令に候處背嚢の儀は下_官曹長の例
に倣ひ廃止可致候哉左すれは出兵行軍の際に至
り從僕等も無之差支の廉可有之に付背負候方可
然被 候條何分の御指令被下度此段相伺候也 ←被の次が空白
指令 四月二十九日
伺の趣曹長は下士一般の背嚢可相用事
但士官背嚢負擔する場合に於て曹長も負擔勿
欄外に、はっきりと読めませんが「被の下 存、考、」等と書かれているので、「背負候方可然被 候」の記載は、元の文がそもそも空いていて、存または考が入るのではないかとメモした残りだと思われます。
また、文中の「高嵜營所」とは、おそらく群馬の高崎営所を指すようです。
1874年4月27日 曹長背嚢ノ下士一般ノモノヲ用ヒシム
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001693964
七年四月廿七日
曹長背嚢 下士一般のものを用ひしむ
近衛局より本省へ伺
曹長背嚢の儀別紙の通國司中佐より伺出候に付如
何可爲致然哉何分之儀御指令被下度相伺候也 四月廿二
日
別紙
歩兵聯隊付中隊付曹長工兵小隊付曹長帯劍可致
云々承知致し候然る處背嚢は士官同様之要具相
用可然哉何分至急ご指令被下度此段相伺候也
指令
伺之趣曹長は下士一般の背嚢可相用事
但士官背嚢の負擔勿論に候へは平常練兵には 負擔に本及出征行軍の節は該隊の運送車に付 し輸送候儀と可相心得候事 衆規渕鑑
文中の国司中佐は、 国司順正(くにし よりまさ) 氏のことかもしれません。
- 公開日 2013-01-24
- 最終更新日 2013-01-24
- 投稿者 太田垣