1884年(明治17年) 近代日本発の国語辞書「言海」草稿版ではカタカナのカバン
1884年(明治17年) 近代日本発の国語辞書「言海」は、完成版では漢字で「鞄」という項がありますが、草稿版では漢字ではなくカタカナで「カバン」としるされています。
言海
古い辞書で「鞄」を引くとどこまでさかのぼれるのか、と思い立ち、「鞄」という漢字の初出とされる辞書『言海』で「カバン」をひいてみました。
カバン (名) 鞄 〔洋語ナラム〕革、布ナドニテ包ミ作レル匣、近年、西洋ヨリ入リ、専ラ、旅行ノ用トス。
出典:『私版日本辭書言海』(第二巻)
1889年(明治22年)10月31日出版の複製(大修館書店) P207
まず、見出し語がカタカナであること。次に〔洋語ナラム〕と記載されていることから断定はできていないようであることがうかがい知れます。また袋モノではなく匣モノだという認識のようです。
関連するいくつかの言葉も引いてみます。
「かは」という見出し語には、「川・河」「皮」の2つがありますが、「革」はみあたりません。しかし「かはいろ(革色)」という見出し語はあり、染色の名、もえぎに紺を加えたような色だと説明があります。
ちょっと関係しそうな言葉として「かはこ」がありました。
かはこ 皮籠 革にて包み造れる匣。皮匣
カバン=中国語由来の「夾板」「挟板」「夾櫃」説を想定して「きゃうばん」「きょうばん」という見出し語を探してみましたが見当たりませんでした。
編者大槻文彦氏は、1847年(弘化4年)生まれで、『言海』で「カバン」の項を出版した1889年(明治22年)は、42歳でした。幼少より漢文詩文を学び、江戸開成所で英学を、仙台の藩校で蘭学と数学を修めているエリート官僚です。
彼は1875年(明治8年)、28歳の時に明治政府の指示で辞書編纂を開始し、九年の年月を要して明治17年に一旦完成させたにも関わらず、その稿本は、出版されることなくお蔵入りとなってしまいます。
1887年(明治20年)になって文部省に「自費出版するなら原稿を返す」と差し戻され、結局自費出版することになってしまいました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000457/card43528.html編纂中に家が火事になったほか、完成間際になって30歳になる妻や5歳になる娘を次々に病気で亡くすなど結構波乱万丈の人生を歩んでいます。
涙なくしては読めない詳しいいきさつは、言海の奥書に書かれている「ことばのうみのおくがき」を読んでいただきたいと思います。今ではインターネットの青空文庫などで、無料で読むことができます。
言海の書名に「私版」とついているのは、これが自費出版だったからなのです。 この辞書はあいうえお順列を初めて考案・採用するなど近代的な辞書の体裁を取っており、たちまち辞書のスタンダードとなります。 そして『大言海』として版を重ねながら昭和十年代までその確固たる地位を築いていました。
稿本 言海
さて、調査の過程で私版に至るまでの草稿が、「稿本」として、復刻(原稿を写真撮影したもの)されていることを知りました。そしてそこでは「カバン」の項の説明が「私版」とは異なった説明になっているのです。
カバン(名)〔洋語ナラム、詳ナラズ〕手提ノ革袋ノ名、近年、西洋ヨリ入ル。
出典:『稿本日本辭書言海』(第一巻) P411
「稿本」は活字ではなく、手書きの原稿資料です。そのため、あちらこちらに校正のあとが入っており、説明書きの「詳ナラズ」のところに薄く鉛筆で丸い印がつけてあります。
おそらく「詳ナラズ」という表現が気になったのか、何らかの理由で洋語であることに確信が持てたのか、いずれかによって、「稿本」から「私版」になる過程で、「詳ナラズ」が削除され、確定事項となったものと思われます。
そしてなにより「稿本」と「私版」の大きな違いは、漢字の「鞄」が使われていないことです。つまり、稿本製作段階では、大槻氏は「カバン」という言葉は認知していたものの「鞄」はおろか「革包」や「革盤」といった漢字と結びついていなかったことがわかります。
また、説明文も「手提の革袋の名」という曖昧な認識から、「革、布製で包んで作る入れ物」、「専ら旅行用」と、やや具体的な認識に変わっています。
材質についても稿本では革製という認識だけだったものが、布素材に広がっています。そして手で提げるだけではなく、旅行に使用するもう少し大型のものも「カバン」と称すことを新たに認識しているようです。
稿本: カバン(名)〔洋語ナラム、詳ナラズ〕手提ノ革袋ノ名、近年、西洋ヨリ入ル。
↓
私家版:カバン(名)鞄〔洋語ナラム〕革、布ナドニテ包ミ作レル匣、近年、西洋ヨリ入リ、専ラ、旅行ノ用トス。
裏返せば、大槻氏の長い辞書編纂期間のうち「稿本」と「私版」の間のどこかで、「鞄」の文字を見つけたのに違いありません。それはどこだったのでしょうか。新聞や雑誌でしょうか。それとも「鞄」の文字をはじめて現在のカバンの意味に使ったとされる銀座タニザワの店頭だったのでしょうか。ここで少し時系列を整理してみましょう。
明治08年(1875) 大槻氏、文部省報告課にて編纂開始
明治11年(1878) 谷澤氏、勧工場で「鞄」の文字使用
明治17年(1884) 大槻氏、草稿完成
明治19年(1886)3月23日 大槻氏、草稿校正完成
明治20年(1887) 谷澤氏、独立し京橋に店舗開店
明治21年(1888)10月26日 大槻氏の元へ政府より稿本が戻る
明治22年(1889)10月31日 大槻氏、『言海』第二冊(か~さ)出版
明治23年(1890) 谷澤氏、銀座に店舗開店(鞄商廛)
大槻氏はどこで「鞄」の文字を見たのか
稿本完成が1886年(明治19年)の3月。それから第二冊が出版される1889年(明治22年)の10月頃までのどこかで、大槻氏はこの間のどこかで「鞄」という文字と現物を見て原稿を校正したと考えられます。
一方、谷澤氏が書家の巌谷一六に「鞄商廛」という揮毫をお願いして銀座一丁目にお店を開いたのは1890年(明治23年)です。
少なくとも大槻氏は書家の巌谷一六氏の「鞄商廛」という看板を目にして草稿を改訂したのではなさそうです。
巌谷氏がむしろ言海を見て鞄の文字を揮毫した可能性の方が高いとさえ考えられます。
しかし谷澤氏の「鞄」という文字を見る機会が全く無かったのかというと、そうは言えません。
別途詳しく考察しますが、谷澤氏は1878年(明治11年)の東京府勧工場(今でいうショッピングモール)ではじめて「鞄」という文字を使ったと述懐しており、その後、1887年(明治20年)の11月に独立したと言っています。
そうだとすれば、勧工場でも十年近く使用し、明治20年の独立から1890年(明治23年)の銀座一丁目の店舗オープンまでの間、京橋二丁目の店舗で商いを行い、そこで「鞄」の文字を使っていた可能性があります。これは丁度、大槻氏が稿本を元に校正を行い、出版作業に勤しんでいた時期と重なります。
ちなみに、言海の奥付には、「東京府士族大槻文彦 府下下谷区金杉村130番地」と書かれています。
金杉村というのは現在でいう日暮里や根岸のあたりとなります。大槻氏は自宅のあった日暮里から銀座や京橋あたりまで、どの程度出歩いていたのでしょうか。
この時期、山手線はまだ上野まで伸びていません。上野まで延びるのは遥か先の1909年(明治42年)の話です。
しかし新しい言葉の採集のため、上野の勧業博覧会や新しい産業の息吹を感じる丸の内、日本橋、銀座界隈の勧工場に足しげく通っていたと想像しても罪ではないでしょう。
谷澤氏の人脈
ここで改めて注目しておきたいのは、谷澤氏の人脈についてです。「鞄商廛」という看板を依頼した巌谷一六は「明治三筆」と呼ばれる書家として有名である一方、明治政府成立以来のエリート官僚であり1886年(明治19年)から1890年(明治23年)までは元老院議官でもありました。
(ちなみに当時、巌谷一六氏は麹町平河町五丁目に住んでいたことが1884年(明治17年)出版の『東京案内』というガイドブックに記されています)
また、あんぱんを天皇陛下に献上したことで有名な銀座のパン屋、木村屋は、明治七年に山岡鉄舟揮毫の看板を贈呈されています。
そういった事から考えると、銀座の地で店舗を出すにあたって、偉い人の看板は強い広告効果を持っていたのではないか、そして谷澤氏は、人づてに現役(またはほんの少し前まで)元老院議官であり、明治三筆と呼ばれる書家に依頼できる人脈を持っていたと考えてしかるべきです。
鞄を販売する相手は、氏族や高級官僚、軍人など、西洋文化をより速く吸収しようとしている人々であったことは想像に難くありませんから、谷澤氏が得ていた人脈も相応のものだったのではないでしょうか。
加えて大槻氏もその顧客の一人であったと考えるのは飛躍しすぎでしょうか。
言海出版パーティ
実は大槻氏の『言海』出版披露パーティはそうそうたる顔ぶれで行われています。
1891年(明治24年)6月23日旧仙台藩の先輩で東京府知事の富田鐵之助の主催で、芝・紅葉館(現在、東京タワーが建っている場所にありました)で『言海』の出版祝賀会が開催されています。
時の総理大臣伊藤博文をはじめとし、榎本武揚、勝海舟、谷干城、土方久元、山田顕義、大木喬任、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、政治家、軍人、ジャーナリスト等、そうそうたる顔ぶれがそろったようです。これから見ても大槻氏は単なる役人ではなく、政界、メディア界に名の知れた知識人だったことがわかります。(巌谷氏はこのパーティには出席していたのでしょうか)
なお、大槻氏の著作の中には『東京須覧具』(とうきょう・すらんぐ)という語彙集があるようです。
これは「稿本」から「私版」を通り、大言海に至るまでの研究メモや単語カードのようなもののようで、そこには遊女の言葉や東京弁等が2700語あまり収集されているのですが、ざっと見たところ、残念ながら「かばん」の項はありませんでした。
- 公開日 2018-05-26
- 最終更新日 2018-05-26
- 投稿者 太田垣