1918年(大正7年)稀覯本『森田大人と鞄』について

『森田大人と鞄』という本の価値について

日本における鞄産業の開始がいつ、誰によって行われていたのか、靴に関しては比較的良く記録が残っているのに対し、鞄については具体的な記録はあまり残っていません。

もっともよくまとまっている資料として1930年(昭和5年)出版の『東京鞄商工同業組合沿革史』(および戦後1956年に東京鞄協会によってこれを再録増補した「東京鞄業界沿革史」)が挙げられますが、どうしても東京視点の記述になっています。

この『東京鞄商工同業組合沿革史』の中に、鞄産業が始まった"一説"として、明治の豪商山城屋和助がフランスから鞄を持ち帰り、これを森田直七に見せて模倣して作らせたという説が記載されており、それが『森田大人と鞄』という本に詳しいとあるのです。

どのように書かれているのか大変興味があったのですが、『森田大人と鞄』という本は国会図書館にも保管されておらず、古書としてもほとんど流通していない幻の本でした。ところが、2021年2月に、岡山の古書店から売りに出されていることを偶然知り、入手に至りました。

森田大人というのは、大阪ではじめて鞄製造をはじめた森田直七のことです。「大人」は「うし」と読み、成人男性に対し敬意を表して使う言葉です。(江戸時代に国学者の間で師匠を大人と言っていたことからくるようです。敬意をこめて森田先生という感じでタイトルに付けているのでしょう。

序文には以下のように書いてあります。

此の鞄製造の開祖たる功労者森田直七氏の今昔を記して後世に傳ふる者なきを遺憾とす。 氏や資性極めて硬直堅剛にして阿らず、故に予学識浅薄文章頗る拙劣なりと雖も茲に氏が 経歴の概要を記して以て聊か後進子弟に示す所あらんとす。
編者識

すなわち森田直七の業績を後世に残そうと、同業者が残した小冊子なのです。つまり、『森田大人と鞄』という本は、東京視点で記録されている東京鞄商工同業組合沿革史と異なり、大阪視点で記録されているという点において貴重なわけです。

講談の話を少し盛り込んでいるのではないかという疑惑

『森田大人と鞄』の話の中には、山城屋和助や後の藤田財閥藤田伝三郎、大阪府知事渡辺昇など有名人の名前が入っていますが、これは当時流行していた講談「山城屋和助:商界奇傑」(1910年(明治43年))の一席を想起するものです。もしかすると、若干話を盛っているようにも感じます。

「山城屋和助:商界奇傑」の中では、前半までが山城屋和助の話で、中ほどで自殺してしまいます。 そして後半は、藤田伝三郎の話になります。

この講談の中では、一旦故郷に戻った藤田伝三郎が知己を得て、明治6年に大阪に靴店を開き、大阪鎮臺に引き立てられ、手土産に菓子折りにゴム長靴を仕込んで府知事渡辺昇を訪問し、府知事を感服させるといった仕立てになっています。

『森田大人と鞄』をよく読むと、山城屋和助と直接特別な接点があったわけではなく、彼が持っていたかばんを見て、これは売れると思って模倣して作ったというだけですし、藤田伝三郎は同じ山城屋で働いていた同僚ではあるけれども、全く別の部署(弾薬係と書いています)で働いていただけということです。大阪府知事渡辺昇にも、由良商店経由でかばんを販売しただけの話で、本筋とは関係ありません。つまり『森田大人と鞄』には、彼の業績を大きく見せるために、講談の話をすこし盛り込んでいる可能性も否定できません。

本の構成

本はA5版30ページほどの小冊子で、手書き原稿をガリ版で刷ったような感じです。

  • 表紙
  • 自序
  • 肖像欄と出生
  • 本文
  1. 両森田家の関係
  2. 安政萬延文久時代
  3. 東京の同業者来阪
  4. 大砲小銃を鋳造す
  5. 皮革樽詰として送る
  6. 會津藩士薩邸を焼く
  7. 直七氏一家を創設す
  8. 直七氏と山城屋和助
  9. 直七氏鞄の製造に着手す
  10. 鞄製造業の発達
  11. 始めて博覧會に出品
  12. 直七氏始めてニスを用ゆ
  13. 販路の擴大と製造家の増加
  14. 口金具の供給
  15. 故小松宮殿下への献上品
  • 褒状
  • 奥書

以下に、要旨をまとめて書き出しておきます。

肖像欄と出生

紙面の上半分に肖像欄が設けられていますが、枠が有るだけで肖像写真はありません。 この本の印刷技術として写真を用いることができず、おそらく別途写真を手で貼り付けて配布したのではないでしょうか。

肖像の下には出生や家族構成についてすこし記載があります。 まとめると、以下のようなことです。

  • 森田直七は、幼名を嘉吉と呼び、嘉永2年6月7日に、大阪市東区唐物町2丁目に生まれた。
  • 父の名を利兵衛といい、その三男として生まれた。
  • 利兵衛は安政6年、直七11歳のときに亡くなった。
  • 母の名をセウといい、明治19年に亡くなった。
  • 直七の奥さんはアサ子といい、二人の間に一男二女をもうけた。
  • 長女愛子は兵庫県篠山の旧藩士の家に嫁ぎ、次女菊子は銀行員の妻となり二人の女児をもうけた。
  • 長男直次郎は、女の子を独り残して明治44年に病気で亡くなった。

1. 両森田家の関係

いきなり変な章立てですが、本文を読むと意味がわかります。

森田直七は、二代目利兵衛の三男で本書の主人公ですが、森田家の有名人として、五代目森田利兵衛こと森田真造がいた。彼は幻の国産飛行機で初飛行をしたパイロットになりそこねた男だった。 彼は慶応を卒業し18年間欧米を遊学していたというので、豪商の息子だったようです。このことを念頭に「両森田家の関係」と書いているようです。

そうなると森田直七も、それなりに裕福な生活を送っていたのではないかと思われます。

森田利兵衛

  • 森田家では代々当主を利兵衛と呼ぶ習わしがあった。
  • 森田直七は、二代目利兵衛の三男だった。
  • 大正5年の時点では、森田家の当主は五代目利兵衛。四代目利兵衛の実弟でかつて真造と名乗っていた。
  • 四代目利兵衛が病気で亡くなり真造があとを継ぎ五代目利兵衛となった。
  • この五代目森田利兵衛は、慶応義塾を卒業後、イギリス、ドイツ、アメリカに18年間留学(?)し、明治44年、大阪城東練兵場で森田式飛行機の飛揚を試みた。

森田式飛行機による森田真造の飛行実験

国産機による初飛行記録は、一般に、海軍の奈良原三次技士が、明治44年5月5日に所沢で奈良原式2号飛行機で高度4メートル、距離60メートルを飛んだのが最初だとされています。
しかし、この10日ほど前に、大阪で飛ぼうとしていた男があり、それが五代目森田利兵衛こと森田新造でした。(『森田大人と鞄』では真造となっていますが、他の資料では新造となっています)

彼は、私財を投じて単葉機を製作し、明治44年4月24日、大阪城東練兵場で1メートルほど浮き上がったとされているのですが、子供を翼で引っ掛けてしまう事故を起こしてしまい、飛行実験を中止してしまいます。

https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/jyoto-airfield

個人が慶応義塾を出て海外を18年もうろうろして、そのあげくにパリから飛行機用のエンジンを個人輸入し、本体を大工に作らせて自分で飛ばしてしまうのですから、どれだけお金持ちなんだかわかりません。

2. 安政萬延文久時代

  • 安政萬延文久時代以前、平和な世が続き、武具馬具関連の産業は閑散としていた。
  • 当時、唐物町2丁目に森田直七の実父、長谷家利兵衛が武具・馬具の店を出しており町年寄を務めるほどであり、大阪でも有名だった。
  • それ以外には、唐物町3丁目に馬具安、唐物町4丁目に「由良小兵衛」、大手通に「馬具仁」などがあった程度だった。
  • 萬延元年頃から、開国の機運が高まり始めて世間は騒々しくなり、武具馬具の需要も急に増えていた。
  • 当時の川柳に「武具馬具屋亜米利加さんとソット云え」というのがありた。

この川柳は、開国が迫り、武士たちが慌てて先祖伝来の武具・馬具を武具馬具屋に出したため、武具馬具屋は大儲けしたという意味です。
まだ開国前なので外国との貿易もご法度、武具馬具を修理に出す理由を話すのも聞くのもご法度のご時世だったので、表向きはそしらぬ顔をしていたが、心のなかではアメリカ様様と心の中で呟いているという川柳です。
(ネットでは「武具馬具屋亜米利加さんとソット云」という表記が多いようです。)

  • 軍馬用の道具を修理するのが馬具屋、駄賃馬用(運送・運搬用馬用、コンダ馬とも呼ぶ)の道具を修理するのをコンダ馬具屋と呼んでいた。
  • こうした馬具屋としては、唐物町二丁目の長谷屋庄七、唐物町三丁目の菱源、菱源の別邸、広屋多助などがあった。
  • 森田家は、維新前は幕府の御用達として大阪三城代(大手、京橋、玉造城代)に加え、高松、郡山、彦根、膳所、出羽、庄内、津軽、南部などの諸藩の御用達も兼ねていた。

3. 東京の同業者来阪

  • 文久の頃(森田直七は12〜13歳の頃)、東京から「馬具吉」という者が来阪した。
  • 次いで東京神田の鬼乙の弟子で「吉」という者、「白荒」という者が来阪した。
  • 当時、大阪で馬具屋といえば「傳七」「平伊」の2件くらいだった。平伊の嗣子が「馬具徳」の木村徳兵衛だった。

4. 大砲小銃を鋳造す

  • 江戸時代、高麗橋に「三宅庄吉」という人が居て、本町空堀東入ルのあたりで、幕府の命と称して寺院の釣り鐘や燭台を潰して大砲や小銃の鋳造にあたっていた。
  • この大砲の車台は西横堀字向日町の大工、多二郎が製作した。
  • 森田直七はこれに付随する胴乱や革具類の発注を受け、製造・納品していた。

和時計における不定時法自動表示機構という論文の中に、和時計を製作した「河内枚方 三宅庄吉」という人物がいることが書かれているが、上記高麗橋の「三宅庄吉」と同一人物かどうかは不明。

5. 皮革樽詰として送る

  • 幕末には欧米からの輸入は既に始まっていたが、武具馬具の材料としては必ず姫路革を使用していた。
  • これは東京も同じだったが、海運業者が革の運搬を拒んだので、樽に詰めて船積みしていた。
  • そのため、革の売買も一樽いくらでやり取りしていた。
  • 森田直七は、熨斗(のし)革として姫路革ではなく西浜の奥田_助(貞助?)から仕入れ、心斎橋の菱源、菱彦、加藤忠兵衛、上難波の松下作兵衛などに卸していた。

6. 會津藩士薩邸を焼く

  • 幕末となり長州征伐などで侍が多く動くようになってきたおり、森田直七は、幕府御用達として武具馬具を製作していた。
  • 幕府は外圧に対抗するため、武芸の錬成所として大阪城の南側に講武所という駐留所をつくったが、森田直七はそこに頻繁に出入りしていた。

玉造講武所は、1865年(慶応元年)〜1866年頃に存在したと言われているが、期間が短くかつ資料が少ないため詳しいことはわかっていません。森田直七は16〜17歳の頃。

  • 1864年(元治元年)の頃には、既に肩掛け型の胴乱があった。
  • 文久から明治初年頃までには、馬具屋として馬具利、兜屋喜一、広島屋などが開業し、稽古道具屋として木村徳兵衛、畑野善四郎等が開業していた。
  • 森田直七、17歳(1866年(慶応2年))の頃、京都守護職会津藩の御用達に鞍馬口の屋敷を訪れ、西洋風の胴乱を製作し、翌18歳の時に大阪に戻った。

7. 直七氏一家を創設す

  • 明治元年4月に、北久宝寺町2丁目に戸を創設した。
  • その頃、鞄の前身というべき西洋胴乱のほか、引き旗、太刀鈎(←どのようなものか不明)などを製造していた。
  • 明治2年末〜3年はじめ頃、紀州藩から2500人分のズボンとジャケットの注文を受けた。
  • 明治3年に大阪鎮台が設置されると、司令長官として四條少将が赴任し、彼から帽子の付属品である眉庇(まびさし:ツバにあたる部分)の製造を請け負った。
  • これをフランス人教師のピラン氏が見て精巧な作りだと称賛した。

8. 直七氏と山城屋和助

  • 時代は明治になり、山城屋がほぼ独占的に明治政府御用達となって幅を利かせた。
  • 山城屋は大阪では佐渡屋惣助と合併し、本町二丁目に大阪支店を設けた。
  • 森田直七は、明治4年に山城屋大阪支店に所属し、政府に納入する靴、脚絆、甲掛、帽子等の製造に職長として働いた。
  • 後に藤田財閥の始祖となる藤田伝三郎も同じく大阪支店で働いていた。(弾薬係だった)
  • 工場は東区本町の東警察の場所にあり、森田直七は西浜から200名の職工を雇い入れていた。

9. 直七氏鞄の製造に着手す

  • 山城屋和助がフランスに渡航したときに持ち帰った鞄を森田直七が模倣して製作した。
  • その時はカバンという言葉は無く、「服入れ」と称した。

10. 鞄製造業の発達

  • 森田直七が始めて鞄を販売したのは、自己の製品を由良商店に持ち込み、その対価として5円を借り受けたのがはじめだった。
  • 由良商店がその鞄を渡辺昇大阪府知事をはじめとする役人に販売したのがはじめであった。
  • 動機や由来は不明だが、由良商店がこれを「カバン」と称して売りに出した。

明治4年のことだったと書いてあるが、渡辺昇が大阪府知事に在職したのは、1872(明治5年)年11月から1880年(明治13年)5月までの7〜8年の間なので、このあたり、すこし時系列に矛盾があります。

  • その後明治9〜10年ころが最も活況を呈していた。
  • 由良屋の別家播磨屋辰蔵が唐物町で販売し、三木屋重助、心斎橋淡路町の大雑貨店加賀屋定七(後に吉田定七)が販売していた。
  • その頃には既に同業者が40社ほどになっていた。
  • 明治10年に起こった西南戦争では、鳴海利助という人から2万個の水筒を受注した。
  • 肉色の革で錻力(ブリキ)を包み、茶色の真田紐で方から掛けるというものだったが、筒がブリキだと水の腐敗を早めるというのでガラス瓶に黒羅紗を被せたものでしのいだ。
  • 日刊新聞大阪日報(今の毎日新聞)の明治11年2〜3月頃の新聞に、森田直七が日本における鞄製造の第一人者であるとの記事が載った。

11. 始めて博覧會に出品

  • 森田は明治11年〜14年の3年間、名古屋に滞在した。
  • 名古屋市本町八丁目にあった菱屋の竹内伊右衛門名義で鞄を出品した。
  • 実は、明治27年に、伊丹の富豪小西氏から鞄の修理を依頼され、鞄を確認した所、この名古屋博覧会に出品した自分が作ったものだとわかり、双方大いに驚いた。

12. 直七氏始めてニスを用ゆ

  • 森田はニスを塗料に用いることを考案した創始者でもある。
  • 当時、加賀定商店と特約店契約を結び、巻煙草入れや毛布締めなどを製造し、独占販売してもらい、加賀定はこれを東京で売りさばいていた。
  • 明治13年に当時加賀定の店員(出版当時当主)菊之助氏と共に神戸に赴き、ドイツの商人エーストマン商会と口金具の輸入契約を交わした。
  • しかし運輸・運送網が未発達で、そのサンプルを入手したのが2年後の明治15年だった。
  • ドイツから輸入したその金具を横浜太田町にあった丸三商店こと稲村善兵衛に転売したり、加賀定東京支店で販売した。
  • その後明治18〜19年頃になると、東京でも口金具を直接輸入するようになった。
  • その頃には大阪では口金具を使ってかばんを作れる職人も増え、加賀定では、直七氏の製品を舶来品と称して東京で売りさばいていた。

13. 販路の擴大と製造家の増加

  • 高速の汽船が開発され欧米との距離が縮まり、旅客の往来が増えたため、鞄製造業は明治20年ころから著しく発達した
  • 明治20年の大阪博物場に舶来物品共進会が開設され、森田直七はこれに出品、賞盃を得た
  • この頃、鞄の種類は200〜300種類に達した。
  • 明治21年に加賀定との契約を解除し、自己の工場で製造を開始し、九州北陸方面への販売を始めた
  • 昔からの同業者は赤松熊七、林大策、大内治助、早野弥曽市、小西、水原であった
  • 当時は服入からカバンと言っていたが、一定の文字はなかった
  • 明治23年、東京の第三回内国勧業博覧会で出品者が授与された褒状に誰の発案か「鞄」という文字が使用された
  • 明治27年、京都の第四回内国勧業博覧会で小西名義で鞄を出品した
  • 当時小西は高麗橋二丁目で皮革の営業を行っていたが明治29年に廃業した

赤松熊七、林大策、早野弥曽市は、人事興信録(第8版)に名前が見える。

14. 口金具の供給

  • かつて口金具をドイツ商人から輸入し、東京・横浜の商人に販売していた
  • 明治30年頃には反対に東京・横浜から大阪に口金具の供給を受けるようになっていた
  • 明治25年頃、森田利兵衛は工場を玉造に建て、金具の製造に着手した
  • 明治27年には、京都の第四回内国勧業博覧会に出品し、二等褒状を受けた

金具の工場は森田直七ではなく、森田利兵衛つまり本家が製造を始めたようである。

15. 故小松宮殿下への献上品

  • 明治35年、皇族小松宮殿下が英国皇帝の戴冠式に参加する際の鞄を献納することを許可される
  • 森田直七は寝食を忘れて、長さ三尺五寸、幅一尺六寸の大型旅行鞄を製作した
  • 明治35年4月に、これを抱えて上京し赤坂区葵町の宮邸に持参した
  • 小松宮殿下は戴冠式後、日本に戻った折、神戸停車場で車の側に森田直七を呼び、御礼の言葉を述べた

現今大阪に於ける重なる鞄製造業は直七氏が鞄製造業者の恩人と仰ぎ大正七年一月同氏の創業四十五周年を記念する為め銀杯を贈らる即其氏名左の如し。

石橋音次郎 岡上安吉 田中國太郎
中家浅楠 永尾福之助 桑田繁松
松岡政次郎 松本清ニ 松浦寅造
肥塚格之助 明石竹造 阪本清七
久徳芳太郎 鬼頭兼次郎 赤胴由藏
人見太藏

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫のデジタルアーカイブスで調べると、 大阪新報 1922.1.13-1922.1.14 (大正11)に、大阪市の鞄製造業(1)という記事がありその中に、大阪市内の主な鞄製造業者として以下の名前が見えます。おそらくこれ以外の人も大阪近郊の同業者だったと考えられます。

  • 中家浅楠(西区新町通三丁目)
  • 明石竹臓(南区瓦屋町一番町)
  • 石橋音次郎(南区田島町)
  • 松本清二(南区田島町)
  • 赤銅由蔵(南区難波稲荷町三丁目)

褒状

森田直七が受領した褒状のほか、品評会の審査員依頼状などが列挙されています。

明治十一年愛知縣名古屋博覧會

明治11年に開催された名古屋博覧會では、名古屋市本町8丁目の菱屋こと、竹田伊右衛門名義でカバンを出品し、褒状を得ている。 この時の表記は靴及革製カバンとなっています。漢字の「鞄」でも、「革盤」でもなく、カタカナでカバンという言葉が使われていることに注目しておきたいところです。

明治十一年愛知縣名古屋博覧會
褒  状 森田直七
靴及革製カバン
     尾張國…………
     …………………
     竹田伊右衛門
製作
カバンノ如ク大ニ…………………
時好ニ適セル………………………

右ノ事項ニ因リ褒賞アラン事ヲ申請ス

審査官 服部直衛(印)
 則武__(印)
審査部長 光永弘道
審査長  山高信離

明治十三年愛知縣名古屋博覧會

名古屋博覧會は明治13年にも開催されています。このときも明治11年と同様、竹田伊右衛門名義でカバンを出品し、褒状を得ています。 この時の表記も靴 カバンとなっています。

舶来模造品共進會 褒賞授與證

これは明治20年5月に、舶来模造品共進会において、大阪府知事名で発行された褒状授与証です。六等褒状を授与されています。 「舶来模造品共進会」は、会合とか組織といったものではなく、博覧会や展示会といった展示・品評イベントだったようです。 ここでもカタカナで「カバン」となっています。

第三回内国勧業博覧会 三等有功章

第三回内国勧業博覧会において、明治23年7月11日付で三等有功章を獲得しています。 このときの表記は「鞄各種」となっており、褒賞の中でははじめて「鞄」という文字がでてきます。

紀念大阪工藝品々評會

紀念大阪工藝品々評會

明治32年10月付で、紀念大阪工藝品々評會で審査員の嘱託を受けています。

    森田直七氏  
 宮内省第一料地  
 泉布観内開設  
仁徳天皇一千五百年紀念  
大阪工藝品品評會審査  
員嘱託候也  

明治三十二年十月  
紀念大阪工藝品々評會

  會長 平瀬亀之輔(印)  

大阪工藝品々評會褒賞之證

審査員の嘱託を受けているのに、なぜか出品して他の人の審査を受けています。 その結果、二等賞銀牌を受賞しています。

紀念大阪工藝品々評會々長 紀念狀

そして紀念品を授与されています。

大阪市製産品品評會褒賞授與之證

明治33年5月15日付で大阪市製産品品評會から一等の褒状を受けています。

勧業博覧會準備共進會

勧業博覧會準備共進會

明治34年4月に、勧業博覧會準備共進會の審査委員の嘱託を受けています。

勧業博覧會準備共進會 功労賞

明治34年5月に、私費で会務に精励・尽力し、審査も無私・公平だったので、共進会が審査員としての森田氏を表彰し銅牌を贈与した。

勧業博覧會準備共進會 進歩賞銀牌

こちらは出品者としても森田氏に対する褒賞。出品物は「旅行鞄」で、進歩賞銀牌を受けている。日付は上記同様明治34年5月。

第五回内国勧業博覧会 二等賞牌

明治36年7月1日付けで、第五回内国勧業博覧会において二等賞牌を授与されています。

二等賞牌
鞄
大阪府大阪市東区瓦町三丁目
         森田直七

審査官
         浅村三郎  
 従大位勲五等  柳 貫一  
 正六位     沢辺春水  
 正六位     佐藤友太郎  
 従五位勲六等  守屋惣四郎  
審査部長  
 従四位勲四等  手嶋精一  
審査総長  
 正三位勲一等  男爵 大鳥圭介  

審査ノ成績ニ依リ前記ノ賞牌ヲ授與ス  

明治三十六年七月一日  
第五回内國勧業博覧會
總裁 大勲位功四級 載仁親王[印]

農商務省 一府九縣聯合共進会審査員

なんと農商務省から山梨県主催の共進会で審査員を命じられています。
日付は明治39年10月13日です。

第十回関西府県聯合共進会 四等賞褒狀

こちらは愛知県主催の第十回関西府県聯合共進会での四等賞褒狀です。
対象は「鞄」、日付は明治42年6月5日です。

大阪重要物産共進會

大阪重要物産共進會

明治45年4月15日には、大阪重要物産共進會の審査員の嘱託を受けています。

大阪重要物産共進會 感謝状

そしてこちらはその感謝状。

旅行博覧会 審査員

これはちょっとおもしろくて、「旅行博覧会」というイベントで審査員を受けたときの書状です。大正2年3月4日です。

大正時代は旅行ブームだった。 旅行博覧会

大正2年2月5日から3月28日まで、大阪府立博物場で、旅行博覧会が開催された。 神戸又新日報1913年1月31日記事。

舞鶴築港紀念 全国物産博覧会 審査員 嘱託状

東京大正博覧会 審査員

東京大正博覧会 審査員 嘱託状

東京大正博覧会 紀念木杯

大阪鞄商工同業組合 名誉顧問嘱託状

大阪府実業功績者 表彰

表彰状 大阪市東区南渡辺町 森田直七

多年実業ニ精励シ其功績
顕著ナリトス_テ本府
実業功績者表彰規程ニ
依リ金杯一個を授与ス
大正九年二月十一日

池松時和大阪府知事は1920年(大正9年)2月3日〜1922年(大正11年)10月16日だったので、発行日は怪しいと思われます。

奥書

奥付にはこのようにあります。

大正七年二月二十五日印刷
大正七年三月  一日發行 (非賣品)

発行兼編編輯 大阪市東区北久太郎町四丁目九 早野彌曾市
印刷人 大阪市東区南本町四丁目一八六 谷村仲吉
印刷所 大阪市南区難波新川壱丁目七一九地 由良活歩堂

早野彌曽市は、大阪市東区北久太郞町4-9で靴・鞄等の革製品を扱っていた早野彌曽市商店の主人です。

発行理由は同業者による創業45周年記念行事

入手してわかったのですが、この本は非売品で、鞄卸業者が発行人となっており、鞄同業者の名前が記録されています。田中直七氏の創業45周年を記念しておそらく仲間内に配布するための冊子を作ったというところでしょう。

発行の理由・目的については、1918年(大正7年)1月に、森田直七氏の創業45周年を同業者が祝い、銀杯を贈呈した記念行事の一環として発行されたものと考えられます。
本書の中で森田直七は1849年(嘉永2年)生まれと記載されており、本書が発行された1918年(大正7年)時点では、69歳となります。数え年で70歳という節目でもあります。

出版人の早野彌曽市は、早野彌曾市商店の創業者で、鞄や靴など皮革関係の卸業を行っていた人物です。

実際の発行年は大正9年か

奥付を見ると発行年は大正7年となっていますが、この本の中には、池松時和大阪府知事から拝受した賞状の内容と日付が記載されており、そこには「大正九年二月十二日」と記載されていることから、実際には大正九年以降に増補・再編集されたのかもしれません。

実際、池松時和氏が大阪府知事に着任していたのは、1920年(大正9年)2月3日〜1922年(大正11年)10月16日だったので、記録とは矛盾しません。発行年の記載に何らかの矛盾があると考えられます。

森田直七の略年表

記事を元に、森田直七の足跡を年表にあらわしてみました。

年号 年齢 記事
1849年(嘉永02年) 0歳 6月7日 大阪市東区唐物町2丁目に生まれた。
1859年(安政06年) 10歳 父 利兵衛を亡くす。
1861年(文久年間) 12-14歳 1961~1963年 東京から「馬具吉」という者が来阪した。
1865年(慶応元年) 16歳 玉造の講武所に出入りしていた。
1866年(慶応02年) 17歳 京都守護職会津藩で西洋風の胴乱を製作。
1867年(慶応03年) 18歳 大阪に戻る。
1868年(明治元年) 19歳 4月に、北久宝寺町2丁目に戸を創設した。
1869年(明治02年) 20歳 紀州藩から2500人分のズボンとジャケットの注文を受けた。
1870年(明治03年) 21歳 大阪鎮台の司令長官四條少将より帽子の付属品である眉庇製造を請け負った。
1871年(明治04年) 22歳 山城屋大阪支店に所属し靴、脚絆、甲掛、帽子等の製造に職長としてあたった。
1872年(明治05年) 22歳 山城屋和助が東京で割腹自殺する。大阪支店閉店時期は不明。
1872年(明治05-10年) 23-28歳 森田の制作したカバンが、由良商店を通じて渡辺昇が大阪府知事に販売された。
1878年(明治11年) 29歳 2〜3月頃の日刊新聞大阪日報(今の毎日新聞)に森田の記事が掲載された。
1878年(明治11年) 29歳 名古屋に滞在した。
1878年(明治11年) 29歳 名古屋博覧会に竹田伊右衛門名義で出品し、褒状を受けた。
1880年(明治13年) 31歳 大阪に戻った。
1880年(明治13年) 31歳 加賀定の加賀菊之助と神戸で独エーストマン商会と口金具の輸入契約を交わした。
1886年(明治19年) 37歳 母 セウを亡くす。
1887年(明治20年) 38歳 大阪博物場に舶来物品共進会が開設され、森田直七はこれに出品、賞盃を得た。
1888年(明治21年) 39歳 に加賀定との契約を解除し、自己の工場で製造を開始した。
1892年(明治25年) 43歳頃 森田利兵衛は工場を玉造に建て、金具の製造に着手した。
1894年(明治27年) 45歳 京都の第四回内国勧業博覧会で小西名義で鞄を出品した二等褒状を受けた。
1902年(明治35年) 53歳 皇族小松宮殿下が英国皇帝の戴冠式に参加する際の鞄を赤坂区葵町の宮邸に持参した。
1911年(明治44年) 62歳 長男 直次郎を亡くす。
1918年(大正07年) 69歳 同業者にお祝いを受け『森田大人と鞄』の出版を受ける。

サムネイル

著者の早野彌曽市氏の没後70年かどうかは確認が取れませんが、20ページ程度の冊子であること、著作の目的が 森田直七氏の功績を後世に伝えるため、と記されていることから、全ページを以下に公開しておきます。





上記の胴乱のイラストがなぜか、日本かばん協会のかばんの歴史のページに掲載されている鞄の写真とそっくりです。
どこかの写真から模写したものなのでしょうか。



















  • 公開日 2021-03-15
  • 最終更新日 2021-03-15
  • 投稿者 太田垣