1877年(明治10年)08月22日 8月22日 当口へ差向の分は七つ山より馬見原方面へ配備申進 野津少将

著者:陸軍少将野津鎮雄

これは、「カバン」のキーワードでひっかかったものの、いわゆる手提げ鞄ではない単語として引っかかったもの。西南戦争における高千穂地方における戦場の地形を説明した文章なですが、「カバント坂」が何を(どこを)意味するのかがよくわからない。

「同所は実に天険(地形が険しく)にして、とても進撃が困難につき、長谷川の前面カバント坂において守備をする考え」という趣旨の文章のようです。長谷川というのが川の名前なのか、文中に出てくる長谷川中佐のことをさしているのかはっきりしませんが、人名だとすると、長谷川中佐とか長谷川隊などと書くでしょうから、川のことのようにも思えます。しかしそうなると川の前面に坂という表現がしっくりこなくなります。

賊昨二十一日午前第十一時進入三田井ハ已ハ賊有トナリ且カガリドノ嶮ニ拠リ防御致候内同所ハ実ニ天嶮ニシテ迚モ進撃難致ニ付長谷川ノ前面カバント坂ニ於テ守備之趣只今長谷川中佐ヨリ報告有之候願テハ当口ヘ御差向ケ可相成分ハ七ツ山迄馬見原ヘ至リ■ 方面配相成度此段申進候也 八月二十二日 陸軍少将野津鎮雄 陸軍中将山縣有朋殿 追テ小官議只今ヨリ新町出張致候此段申添候也

「三田井」は高千穂峡の近く、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井で、かつて交通の要衝となっていました。 「カガリド」は高千穂・三田井にある「鹿狩戸」で、現在でも路線名や橋梁、トンネル名などとして残っています。 「七つ山」は、高千穂峡から少し南、国道503号線近くの、宮崎県東臼杵郡諸塚村七ツ山を指しています。 「カバント坂」については情報がありません。

Wipipediaの西南戦争の山岳部踏破と帰薩 には、以下のような記述があります。ここからは「カバント坂」なるものがあるのかどうか、あるとしたらどこにあるのかは不明。

可愛岳を突破した突囲軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。21日、突囲軍は三田井へ到着するが、ここで桐野は征討軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから突囲軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、22日深夜、突囲軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、西郷達による可愛岳突破に衝撃を受けていた征討軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷達の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける突囲軍の前に失敗に終わった。これは、西郷達の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の征討軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、西郷達は七ツ山・松の平を抜け、神門に出たが、ここで別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。同日、西郷達は小林平地からの加治木進出を図るが、南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた西郷達は9月1日、征討軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。


  • 公開日 2023-01-10
  • 最終更新日 2023-01-20
  • 投稿者 太田垣