1930年(昭和5年)のビジネス本『赤手空拳市井奮闘傳』

1930年(昭和5年)、実業之日本社より出版された、『赤手空拳市井奮闘伝』は、27名の成功した商売人の半生記を書いたビジネス本です。
様々な商店主が関東大震災を経て復興したサクセスストーリーにもなっています。この中に、9ページに渡って谷澤鞄店がいかにして銀座にお店を持つまでに至ったのかが書かれています。

論文『両大戦間期東京市における小売商店の職住関係 : 銀座通商店街の事例から』

『赤手空拳市井奮闘傳』を見つけたきっかけは、北海道大学の満薗 勇(みつぞの・いさむ)准教授が2020年に經濟學研究に発表した論文、『両大戦間期東京市における小売商店の職住関係 : 銀座通商店街の事例から』です。
この中で、銀座・谷澤鞄店に関する情報に少しだけ触れていることを見つけました。

本来の論文の研究目的は、商店において職場(店舗)と住居が一緒だったのかどうかということを調べるところにあるのですが、 1902年、1922年、1940年の銀座の店舗を史料から綿密に調査しており、その中で職住別の店舗の一つとして銀座・谷澤鞄店がリストされていました。

加えて、谷澤禎三が銀座通連合会役員として、1929年に連合会の幹事を努め、理事を1919年から1928年と、1930年から1937年の通算17年(1929年は幹事)、その後1937年から1942年は相談役をつとめていたことが書かれています。

この中で目を引いたのは、谷澤鞄店がなぜ銀座のお店を取得したのか、その理由が『赤手空拳市井奮闘』(実業之日本社,1930年)という本の中に書かれているということでした。

南伝馬町の店(間口 9 尺,家賃月 15 円)で営業していたが,「銀座大商人 の名誉を獲んもの」と空家をねらっていると間口 3 間半の店が空いた。家 賃 22 円だが,後ろの木造家屋を買入れねばならず,それには 5-600 円かかる。

この前後の記載を調べてみたくて、国会図書館で調べると『赤手空拳市井奮闘傳』という本がヒットしました。おそらくこの本のことでしょう。

本書が書かれた昭和5年は、谷澤禎三は銀座通連合会の理事を10年近く務めた上に前年昭和4年には幹事をつとめており、名実ともに銀座の老舗商店だったと思われます。

以降、記載内容の概略を書いておきます。国会図書館のデジタルデータも読みやすく9ページ程度ですので、詳しくは本文を読んでいただきたいです。

口絵

赤手空拳市井奮闘傳 5コマ目の口絵には、谷澤鞄店の写真と店主谷澤禎三の肖像写真が掲載されています。

見出し

谷澤カバン店主が一万円儲けるまで

この本は、「XXXが一旗挙げるまで」「XXXが一万円儲けるまで」「」という大きな章立てがされていて、それぞれ10名ほどの商店主の半生が描かれています。 谷澤カバン店は、「一万円儲けるまで」のくくりで紹介されています。

丁稚奉公中の艱難辛苦

  • 栃木県栃木町の豊かな米味噌醸造家の四男として生まれた
  • 12歳で上京し、日本橋の通三丁目のカバン兼売薬店に住み込みの丁稚奉公に入った
  • 西南戦争後、故郷に凱旋帰還する巡査が谷中や浅草の寺社にたくさん宿泊していた
  • 荷車にカバンを満載し、商売をしていた

永年の忠勤で主人に信用

  • 14歳の時、丸善の横丁の藁屋が火事になり、京橋新富町まで多くの家屋が延焼した
  • 主家も全焼となり焼け跡の片付けが辛かった
  • 主家には12年間奉公した
  • さらに25歳まで3年間のお礼奉公をした
  • 仕入れその他店舗全般を任され、主家の信頼が厚かった
  • 近隣の火災で二度目の店舗喪失に遭い、店舗再興半ばに主人が病死した
  • 未亡人を助けて奮闘したが、その店の養子もお店を回せるようになったので暇をもらうことにした

開業資金二百五十円

  • 独立する決心を固め、世帯道具を買い集め、主家の蔵に預けていた
  • 結城町の結城紬の原料を商っていた谷澤家から養子縁組の話があった
  • 田舎でくすぶるのは嫌なので、東京に出てくるなら養子にはいるのはOKだと条件を出したら承諾した
  • 主家から退職金として250円を貰ったので、これを資本金としてお店をひらいた
  • 日本橋人形町通りの長谷町に間口2間半の空き家を15円の家賃で借りた
  • 資本の大半は商品の買付に当てたが、残ったお金で新聞広告を掲載した
  • その広告には「自分はカバンには豊富な経験を有ち修繕専門にやるから、ご一報次第参上する」という趣旨の文を掲載した

昼夜兼業の大奮闘

  • 朝早くから夜は大概12時まで開店していた。
  • 大晦日は特に夜遅くまで開店し、冷やかしの客に無理にカバンを買わせたりしたこともある。
  • しかし門松を買う金もなく、大晦日の閉店後路傍に落ちていた松飾りを拾い集めて門松にした頃には夜が明けていた
  • 小学生用のカバンは自分で革と糸を買って製造して安く販売していた
  • 斬新な化粧道具入れのカバンを製造販売したところ飛ぶように売れた

機敏な商売ぶりで儲く

  • 人形町通りの客層は良くなかったので、京橋通りでお店を探した
  • 南伝馬町に間口9尺の空き家を見つけ月額15円の家賃で借りた
  • 筋向かいに同業の鞄店があった
  • 客の求める鞄が自店にないときは、ライバル店に小僧を走らせ、商品を借りてきて、口銭を稼ぐこともあった
  • 大阪に支那カバンの模造品が製造されており、これを東京に持ってくれば大儲けできると考えたが、資金が無いので焦慮していた
  • たまたまふるさとの結城町から米を売りに来た商人に資金の借り入れを相談すると、300〜400円ほど貸してくれた
  • すぐにそのころ全通した東海道線で大阪にゆき、製造所をつきとめ、商品を仕入れて利益を得た
  • その頃の売上は1日50〜80円くらいで純益は20%程度だった

宿志を果たし銀座に開店

  • 銀座一丁目の現住所に、間口三間半の店が空いたので移転した
  • 家賃は月額22円だったが、うしろの木造家屋500〜600円の買い入れが条件となっていたので借金をしてこれを買い入れ移転した
  • 明治23年にはじめて帝国議会が招集され、これを好機と抱えカバンを売り出したら利益が出た
  • 日露戦争で好景気になったが皮革類が高騰した。そこで「じゅうたん製」のカバンを売り出したら飛ぶように売れた。
  • 素材は一枚もののじゅうたんではなく、外国のメーカーから入手した見本品だったのでやすくあげることができた
  • 開業から7年目の明治27年には、一万円のお金を儲けるに至った。

口金の製造で失敗

  • ドイツ商社と契約し口金を輸入し、利益を得ていた
  • 下谷二長町の山本工場に提携し資本を入れて口金の製造を始めた
  • 丸T印で販売すると好評だった
  • 職工を100人余りに増やしたが、販売を任していた商人の失敗に巻き込まれ数万円の存をした
  • 大阪、神戸、博多、仙台他に卸売を試みたが、軌道に乗らなかった
  • 明治38年の日露戦争中に経営方針を変更し、口金製造をやめ、卸業を縮小し、小売を主体にした。

誠実と意匠が繁昌の母

  • 日露戦争後の不況で多くの商店が潰れたが、谷澤は盤石だった
  • 店の看板には「精撰旨誠実販売価不二」と刻み記してあった
  • 他店では見ることのできない斬新なデザインのものを販売していた
  • 皇室からの御用を受けていた

主家の再興に努力

  • 主人の命日には墓参を欠かさなかった
  • 主人の養子の時代になって、白髪染めに有毒物が混合して発売禁止の事態になった
  • 心配した谷澤は、その養子を帯同して大学の先生等を訪問し、無害な白髪染めの開発に尽力した

他のお店一覧

谷澤以外にも面白いお店がいろいろあるので、目次から店名だけでも掲載しておきます。

一旗挙げるまで

  • 吉住造花店主が一旗挙げるまで
  • 黒澤タイプライター商店主が一旗挙げるまで
  • 菊屋食料品店主が一旗挙げるまで
  • 長井洋酒品店主が一旗挙げるまで
  • 若干にして今日の大をなした美津濃運動用具店主が一旗挙げるまで
  • 篠原靴店主が一旗挙げるまで
  • 篠崎インキ店主が一旗挙げるまで

この中で有名なのは、後のミズノスポーツになる美津濃運動用具店です。

一万円儲けるまで

  • 無三四堂写真機主が一万円儲けるまで
  • 大黒屋玩具店主が一万円儲けるまで
  • 谷澤カバン店主が一万円儲けるまで
  • 三銀陶器店主が一万円儲けるまで
  • 玉木額縁商店主が一万円儲けるまで
  • 文具商 文房堂主が一万円儲けるまで
  • 小原金物店主が一万円儲けるまで
  • 牛木ボタン店主が一万円儲けるまで

この中で有名なのは、谷澤カバン店と神田の文房堂でしょうか。

裸一貫から

  • 下コックより丸の内精養軒主へ
  • 店員から独立して不二家食料品店主となる
  • 傑物か、怪物か、須田町食堂主
  • うどん屋の倅から真珠王
  • 本郷バーの基礎を築くまで
  • 無一文から大枕問屋になった一青年
  • 貧しき行商人から旅館王になる
  • 米屋の小僧から一流呉服商になった東京呉服組合長森浜三郎君
  • 八円の資本から日本一の大ズボン釣り商店主となるまで
  • 文房具専業に着眼して成功した伊東屋
  • 小僧より大成して日本一の籐細工商となる
  • 岡谷風船商店主が大商店主となるまで

この中で現在でも有名なのは、ミキモトパールの御木本幸吉と、後にホテルジュラクを経営する須田食堂、文具店伊東屋、そして不二家でしょうか。

須田町食堂は、関東大震災後大衆食堂として10店舗以上に店を広げ、その後、ホテル聚楽や上野にあった聚楽台を経営する。現在も株式会社聚楽としてホテル経営のほか、秋葉原UDXに須田町食堂秋葉原UDX店が存在しています。

うどん屋の倅から真珠王というのはもちろん、御木本幸吉のことです。

本郷バーは、当時隆盛を極めていた大衆向けの洋食屋で創業者岡本正次郎のことです。

大枕問屋は、藤澤商店の藤沢清太郎と書いてありますが、ネットで検索してもこの人物についてはよくわかりませんでした。

旅館王とは、新潟県長岡市にあった旅館大野屋の大野甚松のことで、戦前は新潟、東京、大阪、京都、神戸、名古屋、横浜、熱海など、全国10箇所以上にチェーン展開していたようです。本書の中では大野甚松が長岡市の公会堂を寄付したところから説明がはじまっています。新潟県立歴史博物館のWebサイトに長岡市大野屋旅館本店の絵葉書が掲載されています。
https://jmapps.ne.jp/ngrhk/det.html?data_id=3892

東京呉服組合長森浜三郎は、扇屋呉服店を経営し、ビジネス書を2冊ほど書いています。

大ズボン釣り商店主とは、日本橋馬喰町にあった、谷渡り印のズボン釣りをヒットさせ富をなした松直商店の松岡直治郎のことです。その後、友人の鉛筆会社を再建してヨット印の鉛筆を全国シェアの会社に押し上げた人物でもあります。戦前、ヨット印の鉛筆は三菱やトンボ鉛筆と並んで有名な鉛筆だったそうです。


  • 公開日 2021-02-24
  • 最終更新日 2021-02-24
  • 投稿者 太田垣