2010年5月17日 マルエム 松崎倒産

すでに報道などでご存知の方も多いと思うが、マルエム、ISABURO、BONE FRAME等で有名な鞄の大手老舗メーカー松崎が2010年5月17日に、自己破産を申請した。発表によると従業員は78名だったそうだ。負債は2010年2月末時点で約12億5000万円と発表されている。日本の鞄の歴史の中で松崎の倒産は、他の鞄メーカーの倒産とちょっと意味が違う。明治の創業期からずっと第一線を歩んできた老舗メーカーだからだ。

数は少ないが、ブログ等で反応を見ることができる http://star.ap.teacup.com/kaztnk/312.html どうやら倒産は社員も知らなかったようで、その日展示会をやっていたとのこと。たしかにこの季節、鞄業界は展示会を開催しているようだ。 http://plaza.rakuten.co.jp/craftwork/diary/201005200002/
「創業120年 かばんの老舗「松崎」が破産申請」この情報が私のところにすぐきた。
この会社はこの日は展示会をしていた。
つまりお客さんと商談を進めていた。
社員も知らなかったこの事実。
社員、クライアント、仕入先にも突然の事で経営陣の姿勢、
理念が疑われる気がしますよ。
関係取引先はかなり深刻な雰囲気でした。
そりゃ、かなりの額引っ掛けられましたからね。。。
来るべきものが来たという感じではあるようだが、この負債額から見て、倒産というのはやや唐突ではないかという見方もある。 http://isola.jugem.cc/?eid=1377
2010.05.20 Thursday
かばんの老舗、松崎が倒産した
 かばんの松崎が自己破産を申請、17日付で破産手続き開始の決定を受けたという。
最盛期の92年には250億を売り上げたけれど、09年には32億まで落ちたと新聞に書いてある。
あ~ァ、10分の1か。

1889年創業っていうから明治の半ばだ。
まだかばんなんて誰も持っていないころだろうな。
ぼくが子どもの頃から本社が蔵前にあってぼくの実家のそばだし、小学校の友達の父親が勤めていたりして、身近に感じていた会社だった。
そのころから界隈じゃバカでかいビルで、軍艦みたいで、子供心に企業ってのはこういうものかなんて思っていた会社だったんだな。

数年前から危機は伝わっていて、ヤマノ・ホールディングスの傘下に入ったと聞いていたけれど、IT系の投資会社の傘下に変わっていたんだ。
たまに光るモノを出してはいたけれど、低調って感じは否めなくて、来るべきものが来たってことだろうな。

でも20年前に250億やっていた会社が今は32億、落ち込み方は酷いけれど、そのわりに負債が12億ってのが解せない。
12億なんて年商10億の会社が倒産したってそのくらいはいくぞ。
32億やっていれば12億なんて返せる範囲でしょ。
何回も倒産の現場を見てきたぼくにしては、倒産っていうのは経営者が絶対にしてはいけない行為だと思う。
周りにかける迷惑はすごいんだから。
もう少し頑張れるような気がする、深読みすると裏がありそうな数字の倒産劇だ。

たしかにISABUROのように、それなりに個性の立ったブランドとそれを製造・販売する力はあったわけなので、再生する方法もあったはずなのだろうが、何がそれを阻んだのだろうか。抜けきれない古い体質だったのか、世代交代の失敗なのか、親会社トライアイズになにか考えがあるのか…。

松崎は、1889年(明治22年)5月創業、1929年(昭和4年)5月に法人化した老舗の大手カバンメーカーで、最盛期の1992年5月期のバブル絶頂期には年売上高約250億円をあげていたというが、2006年5月期の年売上高は約74億9700万円に低迷、2009年11月期(決算期変更)の年売上高は約32億2500万円にダウンしていたという。

バブル期の絶頂期を別とすれば、松崎の歴史としてはもっと戦前を掘り起こしてゆくべきだと思う。日本が領土拡張を続け、満州、サハリン方面から南方まで日本人の活動範囲が広がり、鉄道網が整備されるのとともに成長した企業だったといえよう。

1970年代にブランドライセンスを受け国内で量産し、百貨店チャネルでを販売するというビジネスモデルが当たった後のビジネスモデル構築に遅れたというのが率直な感想である。裏返していえば、マルエム松崎というブランドを世界的に高い評価に押し上げるチャンスがあったはずなのに、いつのまにか逃してしまったという感じである。なんとなく顔の見えない鞄メーカーとなってしまったとでも言おうか。

バブル崩壊後、独自チャネルを”ゆるやか”に開拓している間、2000年から2001年にかけて、そごうグループ、マイカルグループを中心とするデパート・大手小売業界の再編成がおこってしまい、一気に経営が悪化、2002年に千葉工場を閉鎖、その後は自力では再生を果たせなかったとみていい。2006年の堀田丸正傘下、2008年のトライアイズ傘下での再生とスポンサー探しをするものの、チャネルやブランドの整理がうまくいったとは思えない。

今から思えば、1980年代から2000年の間に大きく変革すべきだったのだろうが、それができなかったというのが痛い。

松崎の歴史については、楽天アスカShopの鞄メーカー松崎の誕生秘話に詳しいが、そのうちこのページも消えてしまうのであろう。こういう情報は消さずに残してほしいと思う。(父さんから6年経った2017年時でも残してくれている。ありがたいことだ。)

沿革

  • 1889(明治22年) 5月24日松崎伊三郎が日本橋馬喰町4-3に松崎鞄店開設
  • 1897(明治30年) 鞄製造卸専門となる
  • 1906(明治39年) 大阪・南久太郎町に大阪支店開設
  • 1929(昭和04年) 5月24日株式会社松崎に改組
  • 1938(昭和13年) 台東区蔵前1-5-3に東京本社を移転する
  • 1946(昭和22年) マルエム工業設立
  • 1953(昭和28年)名古屋支店開設
  • 1957(昭和32年)柏商店を合併し袋物部門を新設
  • 1959(昭和34年)松崎産業を合併
  • 1959(昭和34年) 9月 米国スーツケースメーカー Skyway社と技術提携
  • 1966(昭和41年) 札幌営業所開設
  • 1970(昭和45年)日本初のABS樹脂製スーツケース発売
  • 1970(昭和45年)世界最初の鞄用電子ロック機構を備えた鞄を発売
  • 1973(昭和48年) 福岡支店開設
  • 1989(平成元年) 5月24日創業100年
  • 2001(平成13年) ISABURO1889を発売
  • 2006(平成18年) 堀田丸正傘下で経営再建開始
  • 2008(平成20年) トライアイズが松崎の株式を100%取得し、傘下での再生開始
  • 2010(平成22年) 5月17日自己破産申請
  • 鞄メーカー松崎の誕生秘話(出典:http://www.rakuten.ne.jp/gold/askashop/mens/brand/matuzaki-kikaku/birth_secretstory.html より抜粋)

    松崎伊三郎が東京の日本橋区馬喰町4丁目3番に、カバンメーカー松崎を創業したのは、明治22年(西暦1889年)5月24日、伊三郎が満24歳を迎えた日である。

    伊三郎は慶応元年(1865)5月24日、埼玉県行田の操綿問屋に生まれた。「行田足袋」で知られるように、ここは生糸や絹綿糸布の産地であり、伊三郎は両親のもと、弟1人、妹2人とともに、豊かで平和な毎日を送っていた。

    ところが、明治3年(1870)、普仏戦争の勃発で生糸関係の輸出がストップし、家業は一転、危機に追い込まれた。さらに、町内の火災で店舗も住居も類焼という不幸がかさなって、父は失意のうちに、明治8年3月に病没した。伊三郎は家計を助けるために、日本橋馬喰町の織物問屋、橋本商店に奉行することになった。 明治18年(1885)、病気で退店したが、間もなく、健康を取り戻すと、今度は旧主人から卸してもらった行田足袋の行商をはじめた。その後、明治20年(1887)、たまたま新しい商品として人気の出始めた鞄に注目した。器用な弟文四郎に鞄の製造を取得させ、自分はその販売に打ち込もうと思い立ったのである。

    当時の商品はズック製の学生鞄である。弟らが毎日4~5ダースの鞄を作り、伊三郎はそれを背負って売り歩き、資金づくりに励んだ。

    日露戦争(明治37年(1904)2月~38年(1905)9月)と日韓併合(明治43年(1910)8月)は、国内産業の近代化、国際貿易の著しい伸長(明治44年(1911)、関税自主権確立)をもたらした。

    とくに、中国、東南アジア各地への輸出は激増し、大正初期には輸出のほぼ半分が東洋向け商品で占めるに至った。国民生活が急速に洋式化し、かつ商品の販路が国外に広がったことは、鞄にとってもその質に、量に、そして生産ならびに販売方式にも大きな影響を与えることになる。

    鞄専門店も逐次増加した。なかでも、鞄の普及、促進に力になったのは、明治40年(1907)頃から百貨店との取引が開始され、販売、陳列方法が大いに変化、拡大したことである。鞄そのものも人気も一変した。日清戦争(明治27年(1894)7月~28年(1895)4月)のとき、軍用として考案された雑嚢が、露戦争の直後から学生の間に流行し、一般社会にも普及したのは、その最もたるものであった。

    従来は軍用品製造を主体としていた鞄業界も、平和産業への移行が促進されることによって、一層の発展をもたらした。また、国内旅行や国際的交流の増加は、台下鞄(寝台の下に入れる鞄)や服入鞄(スーツケース)の改良と普及をうながした。袋物(ハンドバッグ類)も、明治中期は古代切れや鹿革を用いた信玄袋が代表していたが、明治末期には千代田袋が登場した。女帯地の錦織を使った千代田袋は、大正7,8年(1918、1919)ごろ大流行をきたしている。

    大正初期、洋装が女性の間に浸透し始めると、オペラバッグ(小型ハンドバッグ)は上流階級だけのものではなくなった。また、札入れ、名刺入れ、二つ折り鉛筆差し(シース)などは、日常の必需品としてみなされるようになった。需要の増加に伴い、松崎も、代地河岸の工場の中に袋物部を設立して(明治39年(1906))、製造面を大幅に強化した。

    日本航空国際線が開設されたのは、昭和29年(1954)である。これから海外旅行が盛んになることは当然予測され、昭和27年(1952)ごろからスーツケースが普及しだしている実情を見て、優良なスーツケースの量産を目指し、いくつかの新製品を生み出した。

    昭和30年(1955)に販売した強力プラスチック製品スーパーケースは、100トンの圧力で成型してあり、頑丈なのが特徴であった。また、同年、プレスボードに金属製の特殊塗料を施工した新資材は、外観が金属製品に似ており、ニュームより軽く革より強いハードケースとして評価を得た。

    しかし、松崎の理想としては、まだ完璧といえず、種々の検討の結果、優れた技術を誇るアメリカのスカイウェイ社との技術提携に踏み切ることとなった。松崎は、流れ作業による大量生産が可能な生産整備を擁しており、技術契約の交渉は順調に運び、昭和34年(1959)9月、その締結を完了した。

    こうして誕生したのが、”軽くて使いよい”と銘打ったスカイウェイ・スーツケースである。その後、いろいろ改良が施され、昭和36年(1961)には、広げたり狭めたりできるエキスパンディング・ケース、37年(1962)には豪華なスカイウェイ・デラックス、さらに39年(1964)にはソフト・タイプで、アメリカのテキソン社開発のテキソンを使用したスカイウェイ・フレックスなどの完成を見た。

    昭和45年(1970)には、ABS樹脂を樹脂メーカーと共同開発、日本最初のABS樹脂製スーツケース、スカイウェイ・マーキュリーを完成、その後もソフトタイプのSCU,ABS樹脂製のSWUなどの新製品を開発した。

    旅行用鞄で重要な条件の一つに、錠前がある。海外旅行の増加に伴い、錠前が針金などであけられる被害も頻発し、使いやすく、見た目もよく、絶対に安全な錠前の開発は、業界における懸案であった。

    そうした中、松崎は昭和45年(1970)、世界最初の鞄用電子ロックを開発した。この電子ロックは、同一番号でなければ、絶対に開錠できず、また、一般では合鍵を作ることも、外部から簡単に破損もできない構造になっている。

    松崎がメンズバッグを売り出したのは、昭和30年(1955)代の初めであるが、昭和50年(1975)代に入ると、セカンドバッグとして手軽なショルダーバッグが、にわかに脚光を浴びてきた。

    ■古い資料を救え

    松崎の倉庫や事務所の棚の奥深くにいろいろ歴史的に興味深い資料があるはずだ。昔の写真、戦前の鞄の設計図、デッドストックの革や部材、部品、書籍やカタログ類等。これらは貴重な資料でもあるので、もしそれがごっそりと邪魔な粗大ゴミとして捨てられるのであれば、どなたか一声かけてほしい。

    ■熟練の技術はどうなる

    戦前の松崎は社員や職人に対してとても親切で手厚かったという話を聞く。鞄職人の地位は低く、本当に低賃金重労働で小さな借家で一生懸命作っていたという。松崎が抱えていた職人も同様に賃金的には決してよくなかったが、もしものときにとてもよくしてくれたという。そのため松崎お抱えの職人の忠誠心はとても高かったという。

    今、そういった戦前を知る職人はもう無くなっているだろうし、そういった話を聞いて仕事をした世代も70歳くらいだろうから、忠誠心がどうなっているのかはわからないが、一肌脱ごうという人はいないのだろうか?

    そしてまた、松崎がはぐくんできた無形の技術力が散逸してしまうとしたら非常にもったいない。

    ■ディスカウントセールはどうなる

    ISABUROやボーンフレーム等は今後どうなるのだろうか?
    デパートなどで投げ売りが始まるのだろうか?

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