1927年6月 名古屋・覚王山に鞄祖・竹内常次郎の石碑建立

名古屋・覚王山、日泰寺の近くに、3メートル近い立派な記念碑があるらしいです。この碑は、1927年に竹内常次郎氏が亡くなり、彼を慕う当時の名古屋の業界関係者が発起人となって建立されたものだといいます。名古屋鞄協会が発行した「愛知鞄九十年史」によると、この石碑は1927年5月には完成し、6月7日に除幕式が行なわれたとのこと。この竹内常次郎氏については、名古屋においては名古屋に鞄産業を興した鞄祖とされていますが、その人生についてはよくわかっていません。

また建碑趣意書には以下のように記載されているようです。(まだ行ったことが無いので「らしい」という表現です)

故竹内常次郎氏は東京にいて文化三年七月出生され、明治十年頃当市に  
来たり、以来鞄業界進展に努力され多数の師弟を教養し、以って当市斯  
業の進運を誘導せらる。その功僅少ならざるものと思惟す。然るに明治  
三十五年事情あって浜松に転居されしが、その後不運続きにて且又大正  
四年頃より不治の病魔に侵され、遂に不帰の客とならるるに依り、僅か  
にその恩を報じその霊を慰めんと欲し茲に建碑会を組織す。依而、微意  
ある所をご賛同被下御後援を得たく趣意書を以って希う。  

発起人は、水野敬一、丸山浅吉、久野辰次郎、服部寅次郎、桑山彦次郎の5名。このうち桑山彦次郎氏は、竹内氏に直接鞄づくりを習ったと言われており、サンコー鞄 の創業者で桑山彦次郎商店として明治26年に操業しています。また水野敬一氏は、水野鞄店 の三代目です。

なお、建碑趣意書の「文化3年」という記述が間違っているとの指摘があるようです。 たしかに1806年(文化3年)生まれ、1927年没とすると、没年齢は121歳となり計算が合わない。そこでそれらしい年号と没年齢を見てみると

  • 1863年 文久3年生 64歳没 (明治10年、14歳で名古屋に来たことになる)
  • 1856年 安政3年生 71歳没 (明治10年、21歳で名古屋に来たことになる)
  • 1846年 弘化3年生 81歳没 (明治10年、31歳で名古屋に来たことになる)
  • 1806年 文化3年生 121歳没 (明治10年、71歳で名古屋に来たことになる)


名古屋に来た時には、既に東京で名工と謳われていたというので、この中でみると、弘化3年生まれで、31歳で名古屋に出てきて、81歳で没というのが一番それらしいように思われます。

石碑読解

Asturio Cantabrioさんが、覚王山日泰寺墓地を訪問し、この墓地の石像や石碑 などをブログにアップされており、竹内常次郎の石碑についても写真入りで詳しく書かれています。

振り返ればロバがいる | 覚王山日泰寺墓地を訪れる(1)

ここに掲載されている写真では、明確に文久3年と彫られています。つまり、私の弘化3年説は、否定されるわけです。 少なくとも、名古屋の鞄の同業者の語り伝えでは、以下のようになっています。

竹内翁は幼少の頃から皮革製品の製造を修めたもので、この道では希代の名工であり、得がたき達人であったと言われる。 徳川幕末時代、年は若かったが馬具の製作にかけては並ぶものが無く、諸大名から注文を受けた出入りの問屋が、当時競って青年工竹内にその製作を依頼したものだったという。 (出典:協同組合名古屋鞄協会

ただ、いくら青年とはいえ、14歳に満たない子供が江戸で名工とは呼ばれないでしょうし、名古屋に移り住む理由も良く分かりません。 おそらく、名工と呼ばれた部分が話を"盛った"部分であり、14歳で名古屋に来て64歳まで働いたか、周囲の人間が生れた年を勘違いして弘化3年を文化3年と記憶してしまったのかのどちらかだと思います。


  • 公開日 2013-12-09
  • 最終更新日 2025-01-03
  • 投稿者 太田垣