1877年(明治10年)明治十年第一回内国勧業博覧会出展の鞄
明治の初めの時期、海外では産業革命の進展と併せてウィーンやパリなど各地で国家規模の博覧会が開催されるようになりました。その隆盛や国家的意義を理解した明治政府は、明治十年に上野ではじめて国家事業として勧業博覧会を開催します。 勧業博覧会では日本中から農業産品や工業品、手工芸品、絵画、陶器、美術品等を一堂に集め、展示しました。
『明治十年内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』という資料にあたって調べてみると、日本橋区通三丁目の大阪屋川上藤兵衛の名前が残っています。これは銀座タニザワの創業者、谷澤が若いころに奉公したお店の主人の名前です。この書物からもう少し鞄関係と思われる受賞者の名前を見てみます。
鳳紋賞牌 革包各種 福田政次郎 (東京府十二)
花紋賞牌 提嚢各種 川上藤兵衛 (東京府廿五)
花紋賞牌 革包各種 高橋新次郎 (東京府廿五)
花紋賞牌 革包 林龜吉 (東京府廿六)
花紋賞牌 革包文匣 村上淸兵衛 (東京府廿六)
花紋賞牌 支那型革匣 高橋茂八 (東京府九十三)
褒状 革包 水戸路卯之助 (東京府九十四)
同 同 加藤源次郎 (東京府九十四)
褒状 杞柳製提匣 三木善平 (兵庫縣四)
出典:『(明治十年)内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』
(カッコ内はページ番号)
高橋新次郎氏は、『沿革史』で言うところの高橋新三郎のことではないかと思います。どちらかが誤植なのだと思います。
この賞牌褒状授与人名録では、鞄に近い概念の単語として、匣、篋、筐などで表現される箱類もいろいろ出品されています。この中には単なる箱もあればトランクのような運搬可能なものも含まれているように思われます。衣篋、小衣篋、編竹衣篋、省籐提筐、擬革紙文匣等の記述だけから、それが現代の感覚で「カバン」なのかどうかは、なかなか判別しがたいところです。
篋はおそらく竹製の箱でしょうし、匣は木や紙等で作られたものだと思われますが、それが単なる収納箱だったのか、運搬の用途に使われたのかはよくわかりません。字面だけで考えると省籐提筐などは、籐製のバスケットのようなものだったのかもしれません。
更に左に示すように、「革包」たとえば兵庫県からは数名が革包家具という物を出品していますが、これは姫路の革文庫の技術を応用し、文字通り革でくるんだ家具だったようで、いわゆるカバンでは無かったようです。
鳳紋賞牌 革包家具 平井市平 (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具 浦上卯三郎 (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具 浦上卯七郎 (兵庫縣一)
鳳紋賞牌 革包家具 三木善平 (兵庫縣一)
出典:『(明治十年)内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』
(カッコ内はページ番号)
『人名録』とは別に、『内国勧業博覧会委員報告書』という資料もあり、この中には今後産業として育成すべきかどうか等の観点から出品物の論評が簡単に載っています。
先の「革包家具」については「浦上及平井等ノ革箪笥及文庫等悪シキニハアラザレドモ箪笥ニ造ルハ好マシカラス。小箱若クハ女用ノ小ナル手提物又ハ旅行ニ用ウル物書キ台ノ類ヲ造ラバ佳ナラン。」とあります。
つまり、小さなものならともかくタンスに革を使うのはいかがなものか、ということで、あまり評判はよろしくなかったようです。つまりこの例では「革包」は私たちの考える「カバン」ではなく文字通り革で包んだ家具という意味で使っているのです。はたして「革包」と書いて「カバン」と呼んでいたのかどうかは不明です。
『内国勧業博覧会列品訳名』という冊子もあります。これは博覧会の出品物名に英語の対訳を付した資料です。カバン関係の用語を抜き出してみましょう。 「カバン」という読み方は『内国勧業博覧会列品訳名』という資料でも確認できません。
胴(ドウ)乱(ラン) A portmanteau (P49)
革(カハ)袋(ブクロ) (器) A travelling bag (P78)
革(カハ)文(ブン)庫(コ)(器) A leather-box (P78)
提(テイ)籃(ラン) A baomboo refieule (P226)
手(テ)提(サゲ) (器) A bag (P230)
出典:『内国勧業博覧会列品訳名』
(カッコ内はページ番号)
一番気になる「提嚢」や「革包」については残念ながら対訳が載っておらず、当然読み仮名もわからないので、提嚢や革包が当時どのように読まれていたのかは定かではありませんが、少なくとも右にあげたような関連した用語においては「カバン」という読みはしていなかったようです。また、「革盤」という言葉も見当たりません。
- 公開日 2013-12-09
- 最終更新日 2013-12-09
- 投稿者 太田垣